よ。第一、貞夫に出っくわしでもしたら、恥さらしだし、貞夫が来るかどうか、表から覗いてみるわけにもゆかず……弱りましたよ。」
 貞夫というのは、高木老人の令息であり、百合子というのは、カフェーかなんかの女給らしい。老人が息子と顔を合せないように用心しいしい、恐らくはそのカフェーの前を、なんどかこそこそと行きつ戻りつしたろう光景は、ちょっと微笑ましいじゃないか。
「もっとも、わたしがあすこに出かけて行ったのは、貞夫の身体が自由にならない時間、調べ物とか、会合とか、一日がかりの外出とか、そういう場合に限るのだが、それは、一つ家に住んでる親子だから、わたしに分らない筈はない。然し、万一のことがありますからね。用心は用心。用心のための苦心ですよ。」
 もうだいぶ遅く、杉小屋はさほど混んでいない。隅っこのボックスの中に身をひそめて、酒杯を挙げる。
「ほう、これはいい家だ。」
 ボックスの奥に腰を落ち着けてから、高木老人は初めて屋内を見廻し、しきりに感心してるのである。
 ところで、高木老人の話というのが、親馬鹿の標本みたいなものだ。至極平凡なことで、息子の貞夫が女給の百合子に惚れ、金につまり、両親に告白し、結婚の許諾を求めたが、母親の頑強な反対に出会い、欝々として自殺さえしかねまじき態度を取った。母親は一歩も譲ろうとしない。父親、高木老人は、心配の余り、先ず百合子の人柄を観察してみることに決心した。逢ってみると、善良そうな性質らしい。然し場所柄として、金銭のため悪い男に誘惑される恐れもあり、老人は時おり、貞夫にではなく百合子に、或る程度の金を与えてきた。――どうせ大した金高ではあるまい。
「わたしは今晩、最後の仕上げをしましたよ。金を渡しておいて、ちと恥かしかったが、どこかへ行ってみようか、一日か半日、温泉へでも遊びに行こうか、とそう言って誘ってみますと、百合子、ぱっと紅くなりました。それから、どういうものか、縮らした髪を片手でかきあげる真似をして、あの白い額の、細おもての顔を、きりっと引きしめ、眼をそらしながら、言うことがいいじゃありませんか。わたくし、そんな女ではございません。ねえ、どうです。わたくし、そんな女ではございません。」
 これじゃあ、甘っちょろくて話にならん。高木老人と貞夫との親子は、顔立ちがよく似ているし、高木老人の振舞いも訝しかったろうし、百合子は恐らく、事の真相とまでは分らなくとも、なにか怪しいと感づいていたに違いない。女はこんな時、巧みな芝居をするものだ。貞夫にも老人にもなんとも言わず、黙っていて、最後にただ一言、わたくしそんな女ではございません。
 それにしても、おかしいのは高木老人の話しっぷりだ。初めから、如何にも嬉々として楽しそうだった。最後の仕上げの件にしても、聊か色っぽすぎる。まるで惚気話みたいじゃないか。案外、百合子を好きになってるのであるまいか。老人の錯覚で、親切と愛情とを弁別出来なくなってるのではあるまいか。もし百合子が、彼の手を温かく握りしめて、連れていって頂戴、とでも言おうものなら……その後のことは神のみぞ知る。
 高木老人は打ち明け話をしながら、時にはにこにこ、時にはにやりにやり、それから時おり眼に涙を浮べている。いったい、心の底のその奥は、嬉しいのか悲しいのか、不感症になりかけたのを自覚しない老いぼれ蛸。
 俺もどうやら蛸壺に腰を落ち着けすぎたようだ。憂欝の気がかぶさってくる。立ち上って、電車がもう無くなりますよ、と言ってやると高木老人はあわてて立ち上り、勘定をすますが早いか、さっと出て行ってしまった。表の傾斜に滑り転んだかも知れない。
「おかしな年寄りですね。」
 森田が微笑している。俺は指先で頭に渦巻きを描いてみせた。
 俺だって頭が少し変梃だ。強烈な酒でもほしい。マダム・ペンギンのところか、京子のところか……それも今は億劫だし、遼子のところへはちと行きにくい。高木老人のおかげで、沖繩の海も見失ってしまった心地だ。森田が拵えてくれる怪しげなカクテルを飲むことにする。
 体も意識も、ふらふらと、明滅する感じだ。
 森田が戸外まで送って出て、空を仰ぐ。
「あしたも、天気らしいな。」
 独語には、俺は返事をしないことにきめている。第一、天気模様なんかどうだっていいじゃないか。
 手っ取り早く、輪タクだ。
 体がはいるだけの空間の、その幌の中は、別天地だ。蛸坊主からも脅かされず、沖繩の海からも誘なわれず、俺はうとうとと居眠る。そして夢を見た。
 両側に欄干のある、橋らしい大道だ。はっきりした橋ではないが、橋のようでもある。その両方の欄干に沿って、二人の女が歩いている。そぞろ歩きのように、ゆっくりゆっくり歩いてゆく。欄干のつきるところまで行って、左側の女がくるりと振り向き、右側の女もくるりと振り向
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