これを、驚くことには二つも平らげた女がいる。
京子はまあ中肉中背だが、光子はそれより少し背が低く痩せている。鼻がつんと高く、眼に鋭い光りがあって、謂わば貴族的にインテリ的に見える。
光子はしんから怒っていた。京子よりも本気で怒っていた。洋裁店で、デザインもやり、ミシンも踏んでるのだが、客筋から届けられた南京豆を朋輩といっしょに食べてる時、光子があまり貪りすぎると皆から非難された。
「だって、痩せぎすの食い辛棒だなんて、ひどいことを言うんですもの。」
それはそうに違いない。肥った女よりも痩せた女の方が大食いであることは、昔からきまっている。そんなことより、たかが南京豆をかじりながら、どうして口喧嘩などになったか、その方が興味深い問題だが、それは御婦人のデリケートな神経に関することで、他からの窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]をなかなか許さないのだ。
光子は涙ぐんでいた。口惜しいとか悲しいとかいう涙でなく、立腹の涙であることは、額に少し青筋を浮べてることで分る。
「癪にさわるから、南京豆の殼を、力いっぱい投げつけてやったし、室中に投げ散らしてやった。」
それでみると、殼のままの豆だったらしい。あれを、ばりばりむいて、ぼりぼりかじって、喧嘩してる、若い女たちの場面は、ちょっと挨拶に困るしろものだ。
腹を立てるより、腹の中にトンカツでもつめこんだ方がよかろうと、留七へ誘うと、その皮肉には全く無反応で、まだ南京豆の一件を怒りながら、巨大なトンカツを二つも食べてしまった。おつきあいに、俺も一つ平らげた。
京子と別れた時は、もう日が暮れていた。
掘割の水がどんよりと暗く、それに街の灯が映り、風もないのに柳の若葉がそよいでいる。こんな時、ふしぎに、空の星が見えないものだ。いや、空を仰ぎ見ないものだ。眼は水面に重く垂れ、腹の中にはトンカツが停滞している。むかし、或る歌人が、トンカツのメランコリー、ビフテキのヒポコンデリーを、歌ったことがあった。だが、そんなのよりもっともっと気重いのである。
石垣の下、掘割の中の狭い洲に、なにか黒いものがうごめいている。おもむろに、匍いずるように、移動している。人間じゃあるまい。蛸のような恰好で、ひょっこり、ひょっこり、移動している。あれが立ち上ったら、きっと人間になるだろう。
気重さは、漠然たる怖れに変る。
あ。天啓のように閃めくものがある。
――われ夢を失えり。
失えりと気付くことは、持ちたしと望むことである。
夢を持つには、平素の心掛けが第一であろうが、然し、時と場合によって、臨機応変の方策がないでもなかろう。
都市はふしぎなもので、如何に整然とした都市にあっても、流れや淀みを至る所に作る。淀みには陰性が住み、流れには陽性が住む。東京のような戦災都市では、その差がまた甚しい。少しく行けば、たちまちにして喧騒の巷である。
電車の響音、自動車の警笛、群集の靴音、それらを超えて空中に鳴り響く広告塔のラウド・スピーカー。これはまさに陽性的暴力だ。然しこれらの暴力の干渉外に、ネオン・サインの射照外に、ひっそりした隅々がある。ひっそりしてはいるが、然し、それは盲点ではない。そこに、酒の酔いと夢と哲理とがとぐろを巻く。
その一つの、杉小屋には大勢の常連が集まっている。経営者の好みで、焼けビルの一階の広間を、日本酒に縁のある杉の木材で改装し、杉で作ったがらくた道具を置き並べた酒場だ。
常連だけで殆んど満員である。ここには、バンドはもとより無い。ラジオも蓄音器もかけない。各自が勝手なことを声高に饒舌っている。ギリシャ哲学、近代政治、労働組合、アプレ・ゲールの理念、なんでも聞かれないものはない。ところが、ふしぎなことには、それらの高声な論議も、すーっと宙に吸われて、広間の空気はいやにひっそりしているのだ。コンクリーの四壁の音響反射のわるいせいか、天井の高いせいか、どのグループの人声も宙に消えて、ただ、饒舌ってる人のゼスチュアーだけがあとに残る。それはやはり、蛸坊主の秘密会合に似ている。
蛸坊主の会合だから、さすがに腕もあり足もある。だが、その腕や足のゼスチュアーも、ここではあまり役に立たない。給仕の女たちは、紺絣にモンペ姿の品行方正な少女だ。蛸坊主どもが如何にも色気たっぷりに、腕や足をさし伸べようと、その吸盤は、深遠な論理の声音が宙に消え失せると同様、宙に迷って何の手応えも得られない。
ひっそりした空気がかもし出され、酔いと夢とがはぐくまれるのだ。一隅のボックスで、中腰になって盛んに饒舌り立ててた青年が、どうしたことか[#「どうしたことか」は底本では「どうしたことが」]、相手の青年から、平手でぴしりと頬を殴られた。すると彼もまた、相手の頬に平手打ちをくわせ、卓上のコップ
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