蛸の如きもの
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]
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――大いなる蛸の如きもの、わが眼に見ゆ。
八本の足をすぼめて立ち、入道頭をふり立て、眼玉をぎょろつかせて、ふらりふらり、ゆらりゆらりと、踊り廻り、その数、十、二十、或るいは三十、音楽のリズムの緩急には殆んど無関係に、淡い赤色の照明の中を、ふらりゆらり、くっついたり離れたり、踊り歩き、音楽が止むと、狭いホールの四方に散り、足をひろげてべたりと屈みこむのである。キャバレー・ルビーの夜のひと時。
「なぜ黙ってるの。」
然し、何をしゃべることがあろう。誰だって、口をつぐんでひっそりしている。或るいは、口を利いてもひそひそと、黙ってるのに等しい。蛸に声が出るものか。口をくうくう鳴らし、吸盤をぴちゃぴちゃさせるだけだ。八本の肢体は足ともなれば腕ともなる。足を組み合せ、腕を組み合せ、または互に絡み合せて、吸盤をぴちゃぴちゃ……。擽ったいじゃないか。穢らわしいじゃないか。そら、バンドがまた始めやがった。こんどは踊りっ娘だ。静かに見ていろ。青い照明になったから、そう邪魔にはなるまい。
「ねえ、おなかが空いたわ。」
今時分、なにを言ってるんだ。だから、女は食うことと眠ることだけだ、と木村に言われるんだ。もっとも、男は飲むことだけだ、と君は言ったが、これも一面の真理には違いない。
バー・ペンギンで木村が酔っ払った時は、おかしかった。あいつ、やたらにブランデーをあおったものだから、すっかり足腰がたたなくなり、それを自分で気付かずに、ソファーから立ち上って、スタンドの方へ、なにかマダムに愛嬌をふりまきに行ったものだから……。第一、あのマダムに敬意を表するということはない。バー・ペンギンとはよく名づけた。マダムの恰好が、脚はちんちくで、胴はのっぺりして、口は反っ歯で、ペンギンそっくりじゃないか。滑稽を一種の愛嬌とするなら、まあ、こちらからも愛嬌を呈するのもよかろう。木村は眼に笑みを含んで、数歩あるいていったが、もう腰がくだけ、スタンドにつかまりそこね、腰掛にもつかまりそこね、すとんと尻もちをついてしまった。ばかりならよいが、起き上ろうとして、手足をばたばたやった。床に手をつくことを忘れたのだ。ダブルの上衣、ポマードをぬった髪、ぴかぴか光らしてるダンス用の靴、それで尻もちをついて、手足を宙にばたばた泳がしてる様子が、まったく滑稽で、俺は笑いだしたし、他の酔客も笑った。誰も助けにゆく者がない。その時、マダム・ペンギンが、さっと出て来て、彼を抱き起し、大真面目な顔で塵を払い落してやったりしている……。
それからがあのいきさつだ。木村がマダムの体温にふれ、マダムの息を皮膚に受けたのは、恐らくあの時が最初だったろう。ペンギンの胴体がちょっと気に入ったと見える。考えてみれば、マダムが木村を抱き起した時、それだけのこととしては、少し時間が長くかかりすぎたような気がする。蛸が二つからみ合ったら、互に相手のどこかに、必ず、吸盤がふれるものだ。鳥なら羽毛が生えてるけれど、人間ともなれば、蛸と同じに、無防禦の素肌だからね。
「あたし、木村さんといつまでも続くとは思っていなかった。木村さんが浮気なことも知ってたし、あたし一人でないことも知ってた。だけど、まさか、マダムと……。口惜しいわ。マダムは若く見せてるけれど、もう四十すぎよ。だから、マダムの方で熱くなるのは、分らないこともないけれど、木村さんの……気が知れない。気が知れないというより、あたし、口惜しいわ。……口惜しい。」
そんな風に訴えながら、京子は泣いたが、その泣き方が、多分にヒステリックだ。ヒステリックになるのは、年増の女だけとは限らないものらしい。或るいは、年上から年下へと感染するのかも知れない。かりに、マダム・ペンギンと木村とが初めに関係があって、木村が京子へ寝返ったとしたら、マダム・ペンギンのヒステリーは凄いものがあったろう。ところで、二十台の京子から、十台の小娘へ木村が寝返ったとしたら、京子のヒステリーはどんなものだったか、これは俺にも分らない。
京子は女らしい皮肉を言って、バー・ペンギンから他の店へ移った。
「こんな風儀のわるいところにはおられません。」
自分だけは風儀がよいつもりでいる。だから女とは他愛ないものだ。俺がそう言ってからかうと、京子は怒って、留七のトンカツとカキフライをぺろりと食べてしまった。
留七は小さな店だが、ここのトンカツは東京一の大きさだ。美味ではあるが、大皿一杯の大きさだから、容易には食いきれない。
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