の日本酒よりも美味な台湾老紅酒の味を知らないという内地人新聞記者を、而も十年も台湾にいる記者を、私は知っている。
本島中の各家庭には、神体を祭る白木の厨子が安置してある。各地には、純粋な様式の神社が建てられている。だが、それらは余りに簡素で高潔である。――一方、天后宮や城隍廟の狭い境域には、卑俗な偶像が立並び、物売り店があり、本島人の貧しい人々が群れている。
支那芝居は固より、人形芝居や影絵芝居なども、禁止の状態にある。尤も、人形芝居や影絵芝居は新たな研究問題となっている。台湾演劇の確立も企図されている。――だが、その代りに、映画は少く、民衆の娯楽としては何があるか。未だ何もない。
高砂族は、高砂義勇隊として、バタン半島の攻略戦に大なる貢献をした。――だが、本島人は、その得意とする商売や労働の方面に於て、島外に出てどれだけの働きをしているであろうか。私は未だ何も知らない。
其他、いろいろな印象を誌せば限りがないが、それらを綜合する時、悲しい哉、熱情の不足が感ぜられてくる。大衆から盛り上ってくる熱情の謂だ。この熱情なくしては、台湾の性格を作り上げるのは恐らく困難だろう。
台湾は、今や南方を向いている。台北を本島の臍とすれば、基隆は足であり、高雄は手である。この高雄の港口の突堤の上で、私は変なことを考えた。嘗て或る人が或る子供に向って、東京市内には上り坂と下り坂とどちらが多いかと尋ねた。子供は暫く答えに躊躇した。この躊躇の心理が分るのだ。理論的には上り坂と下り坂とは同数であるが、心理的に問題となるのは上り坂である。高雄の港には船舶の出入が甚だ頻繁である。その出る船と入る船とどちらが多いかと、私は突堤の上で自分に尋ねてみた。理論的には同数だが、然し、感情は出る船の上に運ばれる。この港は今や、広く大東亜海の四方へ開いてるものとなっている。この実感から高雄港の熱情が湧いてくる。
かかる高雄港を手として持つ台湾に、大きな熱情の湧かない筈はない。大きな熱情が湧けば、文化台湾の性格もやがて創り出さるるだろう。所謂台湾ボケなども克服されるだろう。私はそのことを、台湾に在る内地人や本島人や高砂族の優秀な人々に期待したい。またこのことの助長こそ、台湾皇民奉公会の主目標の一つともなるべきものであろう。
底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月26日作成
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