住宅と称したほどである。だが、それらのことを以てしても、或はそれらのことを越えて、人間は自然に負けているのだ。これは、近代文明生活に於ける人間と自然との地位的関係から云うのではない。単に文化の問題から云うのである。
 文化の問題から観て、人間が自然に負けてるということは、自然は既に明かに独自の性格を具えているが、人間文化は未だ独自な性格を具えていない、とそれだけの意味にしてもよろしい。台湾には台湾としての性格があるべきだ。それはただ台湾の自然にだけしか求められないものであろうか。
 前述の通り、台湾定住の内地人は甚だ少い。随って日本文化は、台湾に浸潤してるどころか、卑俗な面の移植でさえも局限されている。高砂族の文化は、まず文化以前の程度と云ってよかろう。本島人の文化は、悉く支那文化の末流である。この例は、本島人の記念的邸宅に見られる。板橋の故林本源氏邸は、その構造が正規のものとして優れてはいるが、建物や庭などそれ自体は、支那本土の有数な邸宅に比ぶれば甚だしく佗びしい。霧峯の林献堂氏邸は、名家の邸宅だけあって、文官府や武官府など数々のものを包括しているが、支那本土のものに比ぶればやはり佗びしい。但しこの後庭を見る隙を得なかったのは私の残念とするところである。
 こうした例は枚挙に遑がない。そこで結論として、台湾としての性格を具えた文化は、向後に育成さるべきであろう。
 建築を例にとったついでに云えば、淡水中学の校舎は注目に価する。淡水港は淡水河の河口を港としたもので、今では全く寂れており、付近の風光のみ徒らに美しいが、この淡水の町の後ろに聳えてる丘の上に、淡水中学が建っている。その建物の主屋は、前世紀の終り頃、英国長老教会マッカイ博士が布教をかねて建造したものであるが、亭子脚を具えた廊下、窓や壁間の均勢、中央のドームなど、西洋と支那との両様式を巧みに取り入れ、而も台湾の土地柄に適合したものとなっている。
 建築のついでに、台北植物園の中にある建功神社を挙げようか。これは井手薫氏が思いきって試みたものである。建功神社とは、台湾方面の功労者を祭ったもので、謂わば台湾のパンテオンである。そのために井手氏は、台湾に於ける新たな廟形式を考えた。煉瓦造りの本屋に円蓋をそばだたせ、左右に翼を張り、瓦屋板を前方につきだし、広い深閑たる土間を礼拝所とした。この構想は、当時種々の批評を招
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