のとして聞かれる。鶯の大なるものは、台北から汽車で間もない鶯歌駅の近くの小山にある。これは鶯の形をした巨岩であって、嘗て北白川宮殿下御通行の折には、この岩の鶯が囀ったという。今はもう沈黙しているが、その代り、鶯の声に似たペタコが至る所に鳴いている。その声は、至る所にいる白鷺の姿に劣らず美しいものだ。
      *
 自然界の熱情から情緒へと、いつしか筆が滑ったが、人事については、先ず情緒からはいってゆこうか。
 内地から台湾への入口たる基隆港について、ちょっと声をひそめたいことだが、台湾夫婦の基隆別れ……という俚諺がある。固よりこの文句の示す通り、酒興遊楽のなかの愛欲事件を指すものであり、雨港たる基隆埠頭の一情景であろう。然し、こういう俚諺が特に生じたところに意味がある。彼は彼女と別れて内地に帰ってゆく――俚諺に歌われるほど多くの彼等が頻繁に帰ってゆくのだ。
 台湾在住の内地人は官吏か会社員だと、これまで云われていたし、現在でも云われている。だから転任による内地との移住が甚だ多いことになる。其他の少数の人々にあっても、台湾永住の覚悟を持つ者は甚だ少いと云われる。その理由はいろいろあろう。茲にそれを穿鑿する隙はないが、ただ一言にして云えば、この豊かな自然の中に於ても、吾々は或る淋しさを感ずるのである。
 台湾の国民学校は規模甚だ広大なものが多いが、その一つの校庭で、或る夕方、同行の窪川稲子さんは、台湾の夕方は不思議に淋しさを感じる、と云ってなにかしら黙然としていた。この窪川さんの言葉は、単に学校の校庭の夕方に於けるものではなく、もっと広汎な意味を持つものだとして私は頷いた。
 一口に云ってしまえば、台湾では、自然が人間に勝っている。人間は自然に負けている。そこに淋しさがあるのだ。固より、台湾は至る所開拓されているし、雑草や埃に蔽われた大道路も四方へ延びてるし、深山幽谷に至るまで、嘗ての生蕃工作の名残りとして、警察小屋があり、山路が通じている。また本島人の田舎町にも、目貫の大通りが穿たれ、規格通りの商店建築が並んでおり、全く独特な南支那風都市として名高かった鹿港の如きも、すっかり近代風に変容してしまっている。また、高砂族の部落も殆んど凡て、山地から平地へ移ってき、花蓮港付近の部落の如きは、石垣と竹垣と塵一つ留めぬ庭と小綺麗な板小屋とで出来ていて、同行の村松梢風君が文化
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