。カーン、カーン、と二つばかり叩くと、階下から誰か昇ってゆくのである。鐘の音は清澄だった。カヨの気に入った。やはり自分で階段を降りてゆくこともあったが、鐘を用ゆることが次第に多くなった。
 そして彼女は終日、たいてい室に籠っている。家の用は殆んどしない。久子が配給物を取りに行ったり、其他の用たしに外出する時、留守番をするぐらいのもので、家事の手伝いはしない。ただ子供達の靴下の繕いだけは、一手に引き受けている。つまり、仕事の部面をはっきり区別づけているのだ。靴下の繕いがすむと、自分の古い着物を縫ったりほどいたり、ぼろ布をいじりまわしたりする。
 最も時間をかけるのは、経文を写すことである。これは神聖な仕事で、先ず手を洗ってきて、紫檀の机の前に端坐し、ゆっくり墨をすりはじめる。それから写経用の唐紙の巻物をくり拡げる。写すのは、法華経の四要品とされている、方便、安楽、寿量、普門の四品である。そのむつかしい漢文を一字一字入念に写してゆく。いくら時間がかかっても構わない。間違いさえなければよいのである。この写経には、彼女は老眼鏡をかけ、白昼でも必ず電燈をつける。いや白昼に限るのであって、夜分は決
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