の用心のため、潜り戸は厳重にし、炊事場には大事な物は一切置かないことになっている。そこには硝子戸が多い。その硝子戸に、しばしば人影がさすのである。勿論、夕方から夜にかけてのことだ。こちらの姿はいつもぼんやりしか映らないが、怪しい人影は、ちょっとの間のことで而も極めてくっきりと見える。
 やはり錯覚だ、と桂介は判断した。闇に限らずすべて薄暗いものを背景とすれば、硝子は光りの工合で鏡の役目をする。僅かな視角の差で、鮮明にも映れば朦朧にも映る。その映像は甚だ不安定だ。カヨは恐らく、自分の不安定な映像を、或る瞬間に異物と感ずるのであろう。そして驚いた身振りのために、視角が変って、映像はすっかり消え失せることもあろうし、自分の映像だと認知されるものだけが残ることもあろう。
 勤務先の会社や、自宅で、桂介は硝子に自分の姿を映してみた。鮮明度はさまざまで、全身がくっきり浮き出すこともあれば、ただぼんやりした薄ら影がさすこともある。顔だけのこともあり、額だけのこともあり、手だけのこともある。その不安定な映像、往々にして寸断された映像を、面白半分に弄んでいるうちに、彼はなにか不気味な気持ちになってきた。
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