蔵の二階
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
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 焼跡の中に、土蔵が一つある。この土蔵も、戦災の焔をかぶったので、ずいぶん破損している。上塗りの壁土は殆んど剥落して、中塗りの赤土や繩が露出し、屋根瓦も満足でなく、ひょろ長い雑草が生えて風にそよいでいる。二階の窓には、錆び捩れた鉄格子がついていて、その外側に白木の小さな庇が取り附けてあるので、一層さびれて見える。中は薄暗いらしく、昼間でもぽつりと電灯がともってることが多い。窓の鉄格子からは、時折、年老いた女の白い顔が、ぼんやり外を眺めている。一階の入口の鉄扉は、さすがに頑丈で、天気のよい日はすっかり開け放たれ、その南向きの石段の上で、小さな男の子が二人、おとなしく遊んでいたりする。――戦後、この土蔵の内部が改造されて住宅にされているのだ。
 この辺は、もともと、住宅街で、復興も後れている。道路に沿って、新築の店屋が少しくあるきりで、他は空地のまま耕作されている。野菜畑もあれば、麦畑もある。土蔵の家は、以前は広い家敷だったらしく、周囲に充分の空地があるが、樹木の植込みもしてなく、耕作もしてなく、片隅に小さな竹の茂みがあるのも、恐らく戦災後に芽を出したものであろう。
 土蔵の二階に一人で寝起きしてるお婆さん、カヨが、突然へんなことを言いだした。
「わたし、どうしたんだろう、耳がおかしくなった。」
 夜中に目を覚して、床の中で、はて何時頃だろうと、柱時計の音に注意してみるが、時計はいつも一つしか打たない。柱時計は一階にあるのだが、その音は二階にもよく聞える。昼間だったら、十一時には十一、三時には三つ、ちゃんと打ってるのに、夜中に床の中で聞くと、いくら耳をすましていても、一つしか聞き取れない。一時間待っても二時間待っても、時計は一つしか打たない。いつも一時か三十分かだが、そんな筈はない。耳の方がどうかしてるのかとも思うのだが、そうでもないらしい。裏の笹藪の音までよく聞こえる。笹藪に風のあたる音、笹藪の中を犬が歩く音、みんな聞こえる。夜中の時計の音だけ、いつも一つしか聞こえない。夜中に限って時計が狂うわけもないし、やはり、耳がおかしくなったのであろうか。
 彼女は穿鑿するように相手の顔色を窺うのである。
 桂介は眉をひそめたが、おとなしく説明してやった。
「それは、お母さんの思い違いですよ。」
 夜中に眼を覚して、眠れないといっても、長い間眼がさめてるものではない。不眠症で夜通し一睡もしなかった、などと訴える人もあるが、医者に言わせれば、実際は相当に眠ってるものらしい。夜中に眼がさめて、一時間も二時間も時計の音に注意してるつもりでも、実際はその間にうとうとして、時計の音を聞きもらすことがある筈だし、三十分毎の一つの音だけを耳に入れるのであろう。
「それにしても、丁度三十分の音だけ聞こえるというのが、ふしぎだよ。」
 それを不思議とするならば、実は、実の笹藪の音をはっきり聞き取るというのが、第一に不思議だった。土蔵の中には、だいたい、屋外の物音はあまり伝わらない筈である。桂介はそれを何度か経験した。まだ子供の頃、暴風雨の烈しい折、建て直し以前の古い家屋がみしみし揺れて、恐ろしくなり、泣きだしたくなり、祖母に連れられて土蔵の中に避難したことがある。土蔵の中にはいると、まるで夢のような心地だった。外に荒れ狂ってる暴風雨の音は、遠くへ消え去ってしまい、土蔵の中はひっそりと静まり返っていて、別世界の感じだった。想像も及ばないほどの不思議さだ。ふだんは、土蔵の中は薄暗い冷々とした不気味な場所だったが、暴風雨の時には、全く安らかな隔離された場所だった。母も一緒に土蔵へはいったことがあるし、あの時のことを、年老いた今でも覚えてる筈である。――その同じ土蔵なのだ。戦災に破損しているし、内部は住居向きに改造してはあるが、それでも土蔵たることに変りはない。入口の扉を閉め切ると、屋外の物音はあまり聞こえなくなる。二階とて同じであろう。実の笹藪の中の犬の足音など、果して聞き取れるであろうか。
 然し、そのようなこと、桂介は胸にひめて黙っていた。
 そのようなことを知らない久子の方が、桂介に囁くのである。
「お母さんの話、なんだかへんね。」
 へんだというのは、遠慮してるので、実は気味わるがってるのである。
 カヨに向っては、久子は、皆と一緒に一階に寝ることを勧めた。
 カヨはちょっと襟を正すような様子で、きっぱり言うのである。
「わたしが下に寝たら、二階には誰が寝ますか。二階を空け渡すようになったら、この
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