家ももうだめですよ。」
それは彼女の持論だった。二階には誰も寝なくてよいということが、どうも納得ゆかないらしい。彼女が一階に寝ることは、二階を誰か他人に空け渡すことで、そうなっては、白井家ももう全く没落だと思ってるのである。
戦時中、地方へ疎開することが問題になったが、カヨはどうしても自家を離れたがらなかった。利根川べりの知人の家に適当な室が見付かって、東京からさほど遠くもないのに、彼女はそこへ行くことを承知せず、ごたごたした揚句、久子だけが幼児を連れて疎開することになった。それも、東京空襲が始まってからのことで、荷物はもう余り運べなかった。それから家には、罹災者の寄寓がふえ、遂には家も焼けてしまった。直接に焼夷弾を受けたのではなく、つまり類焼ではあったが、桂介は老母を連れて避難するのにたいへん苦労をした。
自家のその焼け跡に、土蔵が破損しながらも立ち残ってるのを見て、カヨは眼に涙をためて喜んだ。
「土蔵が残ったよ、土蔵が。」
そして終戦後、焼け跡に小さな家でも建てようかという話になった時、カヨは断然反対し、土蔵の中に住めばよいと主張した。他の家作も炊けてしまい、資産も心もとなかったので、桂介はそれに同意して、土蔵の内部を改造し、一家中で住むことになった。――その時から、カヨは一人で二階を占領し、そこに腰を据えてしまったのである。
あちこちに、新築の家がふえていった。カヨは憐れむように言う。
「あんなお粗末な家をつくって、どうするつもりでしょう。こんど戦争になったら、ひとたまりもあるまい。それに比べると、うちは安心ですよ。」
再び戦争が始まるものと、彼女は確信してるのである。戦争になれば、この前と同じ情況になるものと、思ってるのである。だから、土蔵は最も安全なのだ。
隣りに、鉄管を扱う家があった。径二十センチほどの長い鉄管を、トラックに満載してどこからか運んで来、空地にそれを積み重ね、暫くすると、またトラックに満載して、どこかへ運び去るのである。その家が、新たに建て増しを始めて、白井家の敷地とすれすれに地割りをした。カヨはその方へ気を配った。
「家というものはね、地境いから軒先三四尺は離して建てるものですよ。お隣りはどんな建て方をなさるか知れないが、地境い一杯に建てられるといけないから、前以て注意しといてあげなさいよ。」
三四尺のことなら、どうだってよい、と桂介は思った。
「三四尺といっても、火事の時にはたいへん違います。」
隣家の火事の場合を、カヨは考えてるのである。こちらで新築はしないつもりでも、現在の土蔵の住居に関係があるのだ。それだとすれば、椎の木はたいへん防火に効果があるそうだから、境界近くに椎の木を並べ植えたらよかろうと、桂介は言った。
「椎の木が何の役に立つものですか。一乗寺の大椎さえ燃えてしまったじゃありませんか。いざ火事となれば、立木も却って火を呼びます。」
空襲の大火のことが、カヨの頭には深く刻みこまれているのである。
つまらないことを隣家へ談判にも行けないので、桂介は打ち捨てておいた。ところが、カヨ自身で、工事をしてる大工に探りを入れて、建築は境界から六尺ほど引込んだ設計であり、境界には低い四つ目垣を拵える予定であることが、はっきりした。
「やっぱり、お隣りでも、火事のことを考えていると見えますよ。」
カヨは安心したように眉根を開いた。
然し、周囲に対するそういう配慮は、カヨとしては特別なことで、たいていは二階の室に閉じ籠っているのである。それは蝸牛の殻のようなもので、彼女はその室を背負い、その室の中に生きてるのだった。
一階には桂介夫婦と二人の子供とが暮していて、手狭なところから、日用品以外の家具什器の類はみな、二階の片隅の板戸で仕切った中に納められている。それらの物品も、嘗て、罹災者などに分ち与えたり売り払ったりした後の残りだから、大したものでもないが、それをカヨが後生大事に張り番してる、というような恰好に見える。その上、彼女自身、いろんなつまらない物を大切に保存している。
第一に、大小さまざまなぼろ布が、行李二つほどある。絹布、綿布、洋服地、毛布、などの切れ端で、かき廻すと、絵具箱をひっくり返したような色彩の花が開く。そのぼろ布をためてゆくのが、彼女の楽しみらしい。何に使うという当はないが、ただ、各種の衣裳の象徴なのでもあろうか。それから、桐箱や紙箱にはいってる風呂敷がたくさんある。
次に、彼女は貨幣をたくさん集めている。小さな仏壇のわきに、白木の平たい箱があって、その中に、手にはいる限りの貨幣を投げ込む。古銭蒐集という趣味ではないから、珍らしいものは殆んどなく、小額紙幣の間合に時折出てくる安っぽい貨幣を、見当り次第に貯えるのであり、桂介や久子から貰ったものが多い。明
前へ
次へ
全7ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング