治時代の銀貨や銅貨も少しあるが、多くは近頃のもので、まあ一種の蒐集癖であろう。生活が苦しくなると、まだ多少残った株券の類を、彼女は惜しげもなく売り払ってしまった。そのことから見ても、貨幣集めは吝嗇からではない。ただ、金属の重みが嬉しいのであろうか。役にも立たない錆びついた短刀や懐剣も幾つか、大切に保存してある。
 面白いのは、高さ二尺ほど吊鐘だ。鋲紋だけ打ち出してある無銘のもので、どうしてそんなものが家にあったのか、カヨ自身にも分らない。それが、階段口の壁わきに、天井から吊してある。
 カヨは二階に落着いてから、どんな用があっても、階下の人を呼ばず、自分から階段を降りていった。ちょっとした物を持ち運ぶにも、自分で階段を昇り降りした。呼んで下さればわたくしが、といくら久子が言っても、自分で動いた。随って、階段の昇降が頻繁だった。そして或る日、途中で踏み外して転げ落ち、足首の筋をたがえて、三日ばかり不自由をした。その時、今後のことが気遣われると、桂介と久子は相談して、室の片隅に伏せてあった吊鐘を、階段口に吊したのである。あまり大きな音を立てると、近所に憚られるので、小さな木槌を添えておいた。カーン、カーン、と二つばかり叩くと、階下から誰か昇ってゆくのである。鐘の音は清澄だった。カヨの気に入った。やはり自分で階段を降りてゆくこともあったが、鐘を用ゆることが次第に多くなった。
 そして彼女は終日、たいてい室に籠っている。家の用は殆んどしない。久子が配給物を取りに行ったり、其他の用たしに外出する時、留守番をするぐらいのもので、家事の手伝いはしない。ただ子供達の靴下の繕いだけは、一手に引き受けている。つまり、仕事の部面をはっきり区別づけているのだ。靴下の繕いがすむと、自分の古い着物を縫ったりほどいたり、ぼろ布をいじりまわしたりする。
 最も時間をかけるのは、経文を写すことである。これは神聖な仕事で、先ず手を洗ってきて、紫檀の机の前に端坐し、ゆっくり墨をすりはじめる。それから写経用の唐紙の巻物をくり拡げる。写すのは、法華経の四要品とされている、方便、安楽、寿量、普門の四品である。そのむつかしい漢文を一字一字入念に写してゆく。いくら時間がかかっても構わない。間違いさえなければよいのである。この写経には、彼女は老眼鏡をかけ、白昼でも必ず電燈をつける。いや白昼に限るのであって、夜分は決して写経はしない。
 人は写経をするようになると、或は写経を終えると、あとの寿命は長くない。そういう不吉なことを、久子はどこからか聞いてきた。桂介はそれを迷信だと笑ったが、カヨの生活状態を見ていると、いくらか気にかからないでもない。写経が遅々としてなかなか進捗しないのを、ひそかに窺って、二人は却って喜んでいる。
 カヨの唯一の贅沢は、寝酒を飲むことだ。土蔵の中は冷えるし、風邪の予防に、というようなことから、いつしか毎晩の癖となってしまった。卵酒を一合五勺ほど、二階に持って上って、炬燵にはいり、ぼんやりなにか考えこみながら、または娯楽雑誌などを眺めながら、ゆっくり味って、それから寝床にはいるのである。ラジオは嫌いで、嘗て二階に桂介が取りつけてやったが、少しも聴かないので、一階に移してしまった。静かな環境を彼女は好きなのだ。
 毎晩の卵酒には、桂介夫婦は経済的に困った。酒ばかりでなく、鷄卵と砂糖がいるので、それがつもると、桂介の収入では容易なことではない。だがカヨは、そんなことは殆んど顧慮しなかった。家計がつまってくると、株券でも物品でも、惜しみなく売り払わせた。食物の贅沢などは少しも言わず、何でも食べた。そして寝る前の卵酒だけが、その日その日の楽しみのようである。楽しみばかりでなく、昔の裕福な生活の名残りの夢のようでもある。
 家に仔猫が一匹いる。というよりも寧ろ、カヨがそれを飼っている。彼女が十日に一度ぐらいお詣りする一乗寺の、隣りの家から、貰って来たのである。全身真白で、一本の色の差し毛もなく、眼は水色をしていて、短かめの尾の先端が少し太くなっている。その仔猫をカヨはたいへん可愛がり、子供達にもあまりいじらせず、いつも身辺で遊ばせ、夜は抱いて寝る。二階の隅に、糞便用の砂の箱を置き、それの掃除はいつも自分でする。猫もまたすっかり彼女になつき、彼女が外出する時は、犬のように後を追う。彼女が食べる物なら、たいてい食べる。菓子も食べるし、ほうれん草のうでたのも食べる。卵酒の中にとけてる卵のみも、酒の気をしぼってやれば食べる。
 或る晩、二階で、猫がひどくあばれ騒ぐ音がし、それから、猫は階段に出て来て、駆け降りたり、駆け昇ったり、途中に止って身を隠したりした。気が狂ったようでもあり、楽しそうでもあった。カヨが追って来て、猫を抱き取った。
「静かになさい。なんですか、少しのお
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