かなかったかも知れないが、いけないことが幾つもあった。
 葬儀の前、祭壇は美しく飾られ、上方に祖母の写真が立てかけてあった。その引き伸しの大きな写真が、どうしたことか、前に倒れて、表面の硝子にひびがはいった。この方が、硝子が光らず、写真がよく見えて、却っていい、と兄は言って、硝子を取り除けてしまった。私は嫌な気がした。
 祭壇が出来る前、家の三毛猫が、室にのっそりはいって来た。N叔父さんが、眼を怒らして叱り、猫を追い出して、死人の室に猫を入れてはだめだ、と言った。そのことが私にはとても嫌だった。
 柩を運び出す時、幾人ものひとが手をかけていて、どうしたはずみか、柩が前後にだいぶ傾いた。真直に、真直に持って、と兄が注意した。そのこと全体が私にはひどく嫌だった。
 それからのことは、然し、大勢混雑してる中で起ったので、跡を止めずに消えていった。父は始終、黙って泰然と控えていた。この点では私は父を偉いと思う。
 葬式の混雑が済んでしまっても、父や母や兄は、なおいろいろな後始末の用事に追われていた。だが私は、大して仕事もなく、学校は休んでおるし、自由な時間が多くなった。書物を読んだり、友だちに手紙を書いたり、瞑想に耽ったりしたが、やはり思いは祖母の方へ戻っていった。そして、葬式当時の嫌なことどもが浮き上ってき、それを打ち消すために、祖母のやさしい笑顔に縋りつきたかった。
 笑顔、それを祖母は死後にも私に約束したのだった。窓の磨硝子ににこにこした顔を映してみせると、約束したのだった。そのようなことを、もちろん、私は信じはしなかったが、それでもひそかな期待は失せなかった。現に、窓にはいろんな物影がさしてる瞬間があったのだ。のっぺらぽうの影、私自身の影、何物とも知れぬ影……。どうして祖母の笑顔だけが見えない筈があろう。私はそれを期待したが、一度も見えなかった。
 祖母の遺骨はまだ家に祭ってあって、初七日がすんでから、墓に納めることになっていた。初七日から次々に七日七日と、煩雑な仏事が待っていた。そして一番煩雑な初七日は、葬式のあとまもなくやって来た。来客がたくさんあるので、私は忙しくなった。
 けれども、私はもう余り手伝わないことにきめた。A叔母さんにそう言うと、A叔母さんはそれでいいでしょうと賛成してくれた。
 もともと、私はA叔母さんを余り好きではなかった。女学生みたいな子供っぽいところもあり、ひどく厳格な怖いところもあり、声高く笑い興ずることもあり、真正直な理屈を主張することもあり、どうも形態の知れないひとのようで、親しみにくかった。ところが、祖母の病気のことから、ひどく私の気にかかることが起った。
 二ヶ月ばかり前の頃だった。A叔母さんが見舞いに来て、茶の間で暫く母と話していった。私もその席にいた。祖母の病気はまださほど重いとは見えなかったが、母はいろいろ容態を話して、何しろ老年なのでと訴えた。すると、A叔母さんはじっと考えてる風だったが、突然、眼が宙に据わり、頬の肉が緊張した。そして何やら独り頷いて、やがて言った。
「お大事になすったが宜しゅうございますよ。」
 もとよりその通りで、老年の病気は大事にするのが当然だ。けれど、その時私がへんに思ったのは、大丈夫でしょうとか、やがてお癒りなさるでしょうとか、慰めの言葉を一言も言わないことだった。今になって考えてみると、A叔母さんは祖母の死期を予感していたのではあるまいかとも疑われる。
 それからも一度、へんなことがあった。
 祖母の衰弱がまだひどくならない前、気分のよい時、A叔母さんはまた見舞いに来て、祖母と暫く話していった。どんな話だったか私は知らないが、私が玄関まで送ってゆくと、A叔母さんはコートを引っかけながら、くるりと私の方へ向き直って、私の顔をじっと見た。私はどきりとした。叔母さんはすぐに眼を外らしたが、その眼が宙に据わって、頬の肉がへんに蒼白かった。そのまま、ちょっと間を置いて、叔母さんは言った。
「美佐子さん、お祖母さまを大切にしてあげなさいよ。」
 そこへ母が出て来て、二―三言、普通の挨拶が交わされた。
 ただそれだけのことだったが、今になってみると、なんだか、A叔母さんには祖母の死期が分っていたのではあるまいかとも疑われる。
 その二度のこと、それがいずれも咄嗟のことだっただけに、却って異様に思い出されるのだった。
 初七日の日、A叔母さんはひどく早朝からやって来て、家の者をまごつかせた。叔母さんは一切頓着なく、つかつかと仏間へやって行き、数珠を手にかけて、御経をあげた。御経の中程から、私はそっとはいって行き、後ろの方に坐って、御経を聞いた。
 御経がすんで、叔母さんは経文と数珠を小さな袱紗に包んで、向き直った。
「あら、美佐子さん来てたの。」
 初めて私のことに気付
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