はお座敷をつとめて、貰って行くことをしなかった。そして彼女の唯一の我儘は、どうしても嫌な客の時、お座敷以外は「身体が悪い」ことだった。そんな時は、金銭には依らなかった。商人にも、自分の商品を売るか否かについて、自由意志を持つ権利がある。そして公平な商人は、意志をまげてまで、不当の暴利を貪りはしない。彼女にあって、不当と云えば云える利得は、懇意であろうとなかろうと、金のありそうな客から、お座敷の約束をつけて貰うことだった。時には事後承諾を求めた。そのお約束は、彼女はいろんなことに利用した。あまり隙《ひま》な晩に、または用事に、または仲間への御礼返しに……。だからおかみさんにとっても、彼女はごく忠実な抱えっ妓だった。
 そのお約束の客の名に、オーさんというのが次第にふえていって、朋輩の目についた。
「それごらんなさい、何だかだと云ったって、やっぱりねえ……。」
 吉乃は笑った。
「そうじゃないわよ。あの人、どうせ、仲間なんだから、丁度いいのよ。」
 謎のようなことを云って、それから変に考えこんで、その後で、自分でも不思議そうに、きょとんとした眼を挙げて、また笑った。
 その頃、実際にも、オーさんの足は繁くなっていた。

     二

 岡野信二は、吉乃《よしの》に対して、初めは、快活などこか捨鉢なほど陽気な態度だったが、度重るにつれて、妙に無口に、真面目に、淋しそうになっていった。心の中に、何か悲痛なものが動いてるようで、それも、愛とか恋とか云ったものではなく、ただ期待外れの、心が宙に迷ってるらしく……。そしてじっと、彼女の顔を眺めてることが多かった。
 吉乃もそれに気付いたが、それは、彼女の商売とは関係のないことだった。彼女は平然と、自分の職分を守ることが出来た。
 そこへ、彼の告白が落ちてきた。
 秋の夜の差向いは、淋しい。しいんとしたなかに、どこからか、爪弾《つまびき》の音が伝わってきて、夜更けを告げる。中庭で、笹の葉がさらさらと鳴る……。でも吉乃は、明るかった。甘ったるいのんきな調子で、商売が不景気でも、お稽古が充分出来るのが楽しみだと、そして、お稽古仲間だと、遠くで聴いてても、誰が弾いてるのか、それが分るようになるから面白いと、そんなことを云い云い、爪弾の音色に耳を傾けたりしている。岡野もその方へ、吉乃の言葉へよりも多く耳をかしていた。積り重った伝統的な情緒
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