彼女はもう我慢をしかねて、産後引続き一年足らずの間気を揉み通しだったため、多少逆上の気味も手伝って、思い切った計画をめぐらした。或る口実を設けて、一晩家を空けるということにして、子供と牛乳の瓶とを男に預けて、夕方から家を出た。そして夜遅くなるまで方々ぶらついた。春先のことで、白椿の花に何度か喫驚した。それから頃合をはかって、家の裏口から忍び込んで、出刄庖丁を片手にして躍り込んでやった。思った通り、男は女を引張り込んで、同じ布団の中に寝ていた。――「私もうかっとなって、胸がこんなに脹れ上って、この野郎と思うと、初めおどかすつもりだったのが本気になって、出刄庖丁で一つぐいと抉《えぐ》ってやろうとしたよ。するとね、二人の間に、子供がすやすや眠ってるじゃないか。眼の前がほんとに真暗になって、それからもう何もかも夢中さ。出刄庖丁を投り出して、わっと喚き立てて、子供を引ったくって、外に飛出したまでは覚えてるが、あの二人がどうしたか、子供がどうしたか、ちっとも頭に残ってないよ。私はその晩中、子供を抱いてうろついたせいか、子供が風邪を引いて、翌日《あくるひ》からひどく熱が出てね、もう駄目かと思ったよ。
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