というよりは、夜更けの橋の上で彼女等とひょっくり出逢ったという情景に、場合が場合だけに心打たれて、しめやかな淋しい気持で、茫と月の光に浮出してる遠景を眺め入った。黒々とした腰越あたりの山の端から、遠く三浦半島の山々が灰色に浮出して、その右手に満々たる海が、月の光をさらさらと映してる先は急に黝んで、魔物のように横たわっている。その沖の方から、冷々とした風が吹いてきた。
 彼が二本目の煙草を吸っていると、銀杏返の女が不意に呼びかけた。
「旦那さん、済みませんが、煙草を一本御馳走して下さいな。忘れてきて困ってしまった。」
 彼は二歩近寄って、敷島の袋とマッチとを差出した。彼女は煙草を一本取って、マッチで火をつけてから、それを返しながら、初めてじっと彼の顔を眺めた。
「あら、御免下さい。私あなたを、家《うち》の昼間の……あのお客さんだとばかり思って……。」
 彼女が名指した旅館は、彼のとは違っていた。
「いいじゃないか、」と彼は云った、「どうせ同じ島の客だから。」
「ですけれど、あんまり失礼なことを……。」
 それでも彼女は、煙草をすぱすぱやりながら、彼の方へ話しかけてきた、彼がもう凡ての事情
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