く、ただ漠然と、万一の用意に短刀を携えて、失った恋の追跡を最後に訪れたのだった。そして、道子と共に昼食した旅館へ、ぼんやりはいり込んだ。
わりに暖い初冬の日だったが、客は極めて少なかった。かすかに聞ゆる波の音と共に、夜はしみじみと更けていった。彼は八畳の座敷に一人ぽつねんとしていたが、ふと物に慴えたようにぎくりとしながら、短刀の鞘を払って、一点の曇りもない皎々たる刀の、刀先から鍔元までを、じっと電燈の光にかざして見た。心の底まで冷く冴え渡って、刀の方へじりじりと迫ってゆく。そして胸の何処か遠い奥の方で、宛も夢の中のように、道子、道子……と恋人の名が繰返される……。
廊下に女中の足音がしたので、彼ははっと我に返って、短刀をしまった。それから何の気もなく外へ出てみた。短刀の刀を見てるのと同じ気持の、冷く冴え返った月夜だった。彼は賑かな神社と反対の方へ、橋の方へ歩いていった。
うとうと居眠りをしてる橋番の前を、懐手のままふらりと通りぬけて、ひたひたとした波の音に聞き入りながら、首垂れて機械的に足を運んだ。
橋の半ば近くまで来た時、彼はぞっとして立竦んだ。すぐ其処に、橋の北側の欄干に背
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