られて、洋造と綾子とは或る晩出かけた。夜の山は物騒で恐いと云って、静子は一人残ることになった。
獅子ヶ鼻を廻って大正橋にかかると、川下の方から冷々とした風が吹いてきた。妙に空気が稀薄に思える晩で、月の光が白々として、両岸の山がすぐ近くに迫って見えた。鉄道線路の灯が瞬いてるすぐ上方に、鏡台山一帯は真黒く魔物のように蹲っていた。
「もう止しましょうか。」
「ええ。」
長い大正橋を渡りきって、向う岸を溯って、いつもの河原に来て休んだ。仄白い河原の小石と浅瀬の水音と、月の光と、それからあちらこちらに散歩の人の姿が見えた。
「静子さんは利口ですね。実際都会のものには、夜の山登りなんか駄目ですよ。」
「それでも、静子さんはそれは月の晩が好きなんですの。私月を見てると、何だか淋しく悲しくなってきますから……。」
「月を本当に好きな人は、月を見てても淋しく感じない人かも知れません。でも可笑しいですね、静子さんよりあなたの方がずっと快活なのに……。」
「その代り、もう何もかも嫌になって、口もききたくなくなることがありますの。よく静子さんに笑われますけれど……。」
「そう云えば、静子さんくらいいつも調子の変らない人はありませんね。」
それから話は静子のことに落ちていったが、綾子はふと云い出した。
「あなたのことで私静子さんと議論しましたのよ。」
「え、私のことで……。」
尋ねられると、彼女は急に黙ってしまったが、とうとう口を開いた。
「失恋して間もなく他の人と結婚するのが、いいか悪いかって……。」
彼女は真赤な顔をした。彼も何故となく顔が赤らむのを覚えた。
「ああ私の昔のことですか。」
静子や綾子がそれをどうして知ってるのか意外だった。恐らくその頃の彼の事情をよく知ってる伯母からでも、静子が聞き出してきたのだろう。
「失恋した後で結婚するのはちっとも不思議でないと、静子さんは仰言るのですけれど、向うの人を本当に愛していたら、他の人と結婚なんか出来ない筈だと、私はそう云いましたの。」
「それが本当です。」
「でも、あなたは……。」
「私のは……別ですよ。」
白々とした額をのべて彼女がじっと覗き込んでくる……そういう感じに彼は変に心乱されて、立上ってそこらをぶらつき初めた。川風が肌に寒かった。
「ヒポコンデリーの獅子が失恋したなんて、可笑しいでしょう。」
「あら私、そんな意味であなたのことを……。」
彼女が今にも泣き出しそうな渋め顔をしたので、彼は喫驚して打消した。
「分っています。今のは冗談ですよ。」
彼が無言のままぶらぶら歩いてる間、綾子は同じ所に屈み込んで、しきりに河原の石をかきまわしていた。
「何をしてるんです。」
「水中の夢子さんに、綺麗な石をおみやに持っていって上げるつもりですの。」
彼はふと涙ぐましい心地になって、一緒に石を拾った。それから仮橋の方を渡って宿に帰った。
その晩、彼は知らず識らず綾子の面影を心に浮べていた。夢にも彼女のことをみたようだった。
それから二日たって、洋造は東京へ帰った。汽車の窓から彼は、温泉の方を見えなくなるまで見送った。
「俺は綾子に心を奪われたくない。余りに不自然なことだ。」
其後、綾子は静子と一緒に彼の家へ一度遊びに来た。
それだけのことだった。けれど変に忘れられなかった。洋造はそれを自分の最後の清い幻として心の奥にしまい込んだ。余りに奥深くしまい込んでいつしか忘れていった。
それが、妻とああいう話をした後に、ひょっくり浮び出て来たのである。
「あれくらいのことは、世間にざらにあることだ。それを最後の清い幻だなどとして、いつまでも心の中に懐いているほど、俺の生活は陰欝なのかしら。それほど自分の生活から華かなものを絶って、やたらに子供ばかり拵えていて、それでどうなるのだ。」
翌朝になると、また前夜の猫が庭の隅にやって来て、一匹の牝猫に四五匹の牡猫がかかって、皆煤けて泥まみれになって、ぎゃあぎゃあ騒いでいた。地面を掠めてくる軽い春風に、そのうす穢い尿の匂いまで交っていた。
洋造は嫌悪の念に駆られて、自ら竹竿を持って下りていった。夢中になって脹れ上って、打たれてもびくともしないようなやつを、檜葉や躑躅の茂みの下から、竿の先で突っつき出して、隣家の方へ追いやってしまった。額や背中に脂汗をかいた。
その様子を、空色の洋服に着かえてる冬子が、泣き出しそうな顔で縁側から眺めていた。
「あっちに行っといで。」
叱りつけておいて、彼は眉をしかめながら戻って来た。
「だって、お父さま、可哀そうだわ。」
「他所の猫じゃないか。」
まん円くうち開いた眼の中の、青みがかった白目の縁に、ほろりと透明な水玉が出てきて、それをじっと押え止めるかのように、冬子はあくまでも眼を見開いていた。が……大き
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