く一つ瞬きをして、その水玉がはらりとこぼれると、くしゃくしゃな渋め顔になった。と同時に、洋造はそれを胸に抱き上げた。
「泣くんじゃないよ。馬鹿だね。」
額の汗を掌で拭いて、彼はのそりのそり庭の中を歩き出した。冬子はきょとんとした濡んだ眼付で、彼の肩にしがみついていた。張りきったくりくりした肉付が、何となく甘酸っぱい肌の匂いと共に、彼の胸の中に泌み通ってきた。薄すらとかすんだ生温い朝日の光が、植込の新緑の上に一面に降り注いでいた。
「俺はもう愛とか恋とか、そういったものをいつのまにか失ってしまった。今になって取返しはつかない。夫婦の愛情さえももう味えそうにない。俺の生活はどんよりとしてる。然し……。」
彼は両腕の中に冬子をとんとんとやって、その円っこいずっしりとした重みを測った。
女中が冬子を探しに来た。幼稚園へ出かけなければならない時間だった。
「転ばないように大事に連れて行くんだよ。」
そして彼は妻の方へやって行った。
八重子は蒼白い顔をなお蒼ざめさして、力尽きたようにがっかりした様子で、それでもきちんと端坐していた。彼の姿を見ると眼を外らした。彼は何気ない風で云ってみた。
「お前はどこか身体でも悪いんじゃないのか。もし何なら、医者に診て貰ったらどうだい。」
「それには及びませんわ。」
「それなら、温泉にでも出かけてみるがいいよ。俺も一二週間保養をしてみたいから、急な用を片付け次第、一緒に行こうよ。よかったら……、」そして彼は一寸唇を歪めた、「戸倉にでも行ってみようか。」
「ええ。」と彼女は上の空で返辞をした。
彼は急に心の落付きを失って、それから慌しく外出した。
「何ということだろう、俺達は、揃いも揃って子供ばかりほしがってる。これで八重子が妊娠したら、それこそ万々歳だ。」
変に擽ったいものが腹の底からこみ上げてきて、彼は往来の真中で身体を揺った。
その日彼は自動車を駆って、お常の家へ不意に昼飯を食いに行った。子供四人共丈夫だった。晩飯はお千代の家へ食いに行った。お千代は大きな臨月の腹をもてあつかって、肩でせいせい息をしていた。
「いつ生れるんだい。」
「もうじきだそうですけれど……。こんどのは大変発育がいいって、お産婆さんもそう云っていますが、何だかいつもよりお腹が大きくて苦しいんですの。」
「二子じゃないのかね。」
「あら、いくら大きいったって……。」
糸切歯のあたりの金をぴかっとさして笑ったが、その拍子に、眼の縁の薄黒い隈取りが赤くなった。
餉台のまわりには子供達が、燕の子のように口を並べて、彼がはさんでくれる刺身の切を待っていた。彼が少し悪戯をしだすと、それに皆元気を得て、彼の頭の毛を掴んだり肩に上ったりした。それを彼は順々に並ばして、名前を呼んで返事をさした。
「春子。」
「はい。」と極り悪そうな返事だった。
「二郎。」
「はい。」と大きな威勢のいい声だった。
「五郎。」
「はい。」
「桃子。」
「はい。」
「七郎。」
返事がなかった。皿のものを手ずから頬張って、眼をくるくるさしていた。
「此奴はずるいね。今に豪い者になるぞ。」
杯を取上げてぐっと飲んでると、ヒポコンデリーの獅子という言葉をふと思い出した。それに続いて、水中の夢、空中の夢、と口の中で云ってみた。がどれも、無意味な馬鹿げきった響きをしか齎さなかった。
「此奴等も大きくなったら、いろんな馬鹿げたことをやるだろう。が、兎に角、沢山兄弟姉妹があって目出度いわけだ。」
ふと、眼の中に熱いものがたまってくるのを感じて、鼻をすすりあげたが、それからしきりに杯を重ねた。そして彼は、お千代の大きな腹に眼を据えながら、本当に酔っ払っていった。
底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1−13−22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「改造」
1924(大正13)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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