らなかった。もしこのままでやたらに子供が殖えていったら、その先は――分らなかった。その二つの分らない問題を順々に考えてるうちに、いつのまにかぼんやりしてしまって、戸外に騒いでる不気味な猫の鳴声に、聞くともなく聞き入ってるのだった。
そうした自分自身に気がつくと、彼は慌てて布団の中にもぐり込んだ。佗びしい索漠たる感じが四方から寄せてきた。その中で彼は、自分の過去をずっと見渡してみた。何もかも、道子のことも江の島の橋のことも先妻のことも、遠くぼんやりと霞んでしまっていた。がただ一つ、意外な方面から、綾子の若々しい顔付が覗き出してきた。
綾子というのは、洋造の伯父の末娘の静子と同窓の親友で、女学校を卒業したばかりだった。前年の夏、戸倉温泉に行ってた伯父から洋造は手紙を貰って、いい処だから二三日遊びに来ないかと誘われて、何の気もなく行ってみると、伯父と一緒に静子と綾子が来ていた。伯父は同じ旅館に丁度よい碁敵を見出して、一日中大抵その方にばかり熱中していたので、洋造は自然静子と綾子とを相手にして、若々しい気持に遊びくらして、ついうかうかと十日余りすごしてしまった。静子は内気な弱々しい大人びた娘であったが、綾子は溌剌としたなかに危っけのある素純な娘で、無雑作に束ねてすぐに解けかかりそうな髪恰好と、その下の怜悧そうな広い額とが、全体の姿や調子によく調和していた。
千曲川の河原が彼等の遊び場所だった。水に飛び込んで泳いだり小石原の上に寝転んだりした。川下《かわしも》の彼方に遠く北信の平野が見渡され、更にその向うには、戸隠や妙高などの奇峰が聳えていた。
「山だの川だの平野だの、皺だらけのところを見ると、地球も随分お婆さんね。」と綾子は云って頓狂な顔付をした。
「だって、地球は他の星に比べると、非常に若いっていうじゃないの。」と静子が答え返した。
「どうして。」
「あなたもう忘れたの、地理で教ったじゃありませんか。」
「そう。私忘れちゃったわ。」そして一寸小首を傾げた。「そんならあなたは、人間……人類だわね……人類の命は、地球の命の何分の一に当るかそれを知ってて。」
「知らないわ。聞いたことがあるような気がするけれど……。何分の一なの。」
「私も知らないわ。」
「まあ。」
睥みつけた静子の前を、綾子は笑いながら逃げ出した。大きく牡丹くずしの模様のある単衣を、河原の小石の上に脱ぎすてて、下に着ていた海水着一つで、川の中に飛び込んでいった。
「ねえ、来てごらんなさいよ、鮎が沢山いるから。」
「嘘。」
「ほんとよ。」
やけに水の中をばちゃばちゃやった。
静子はのっそり立上って、水際へ行って覗いてみた。その後ろから、洋造が伯父に借りた海水着一つで飛び込んでいった。鮠《はえ》の子が方々に泳いでいた。
「綾子さんにこれが一匹でもつかまったら、何でも望み通りのことを聞いてあげますよ。」
「どんなことでも。」
「ええ。」
水を乱さずにそっと狙い寄ったり、不意に馳け出して追っかけたりしたが、小鮠はすいすいと身をかわして平気な風をしていた。洋造と静子も一緒になって追い廻したが、一匹もつかまらなかった。帽子の縁まで水だらけにして、すっかり疲れきって、三人は熱く焼けている河原の上で休んだ。
清いさらさらとした流れと、円い小さな石の河原とに、ずっと下の方まで、子供や大人の麦稈帽が点々と散らばっていた。
その河原の上を、月の晩には、昼間の嬉戯を忘れはてた落付いた散歩をした。静子と綾子とはよく歌をうたった。静子の声は細かな顫えを帯びており、綾子の声は張りのある朗かさを帯びていた。
「月の光で見ると、津田さんは何だか憂鬱そうにお見えなさるわ。」と綾子は云った。
洋造は苦笑しながら、黙って二人の傍について歩いた。
「綾子さんはあなたのことを……。」
静子が云いかけるのを、綾子は駄々っ児のように、首と手とを打払って止めようとした。その様子が可笑しかったので、静子はくすくす笑い出した。
「何です、僕のことを。」
「いえ、何でもないの。」と綾子はもう澄し返っていた。
「あのことですか、ヒポコンデリーの獅子だという……。」
「あら。」
二人は同時に足を止めた。
「僕の耳は千里耳だから何でもすぐに聞えるんだよ。でも獅子は有難いな。そのお礼に、詩人めいた素敵な名を二人につけてあげましょうか。」
「ええ、どうぞ。」
「そうだな……静子さんは水中の夢で、綾子さんは空中の夢……ってどうです。」
「水中の夢に空中の夢……。」
静子はそう繰返して微笑したが、綾子は喫驚したような眼で彼の顔を見上げた。
流れの上に渡してある低い小さな仮橋から、きらきらと水に映る月の光を見て、宿の方へ帰っていった。
月を見るなら、川向うの鏡台山に是非登ってみなくてはいけない、と旅館の人にすすめ
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