た。紫陽花の枝には指のように太い芽が並んでおり、山吹の枝先にも小さな芽が無数についていた。苔のない柔い地面から匐い出している蚯蚓を、庭下駄に踏み潰すまいとしてひょいと飛び越すと、すぐ眼の前の茂みから、親指大の赤い椿の蕾が覗いていた。
「あら、もうお眼覚めでございますか。」
足音もそれらしい気配さえもなく、不意に起ったその声音に、久保田さんは喫驚して、椿の蕾から振り向くと、十歩ばかり彼方の檜葉の横手に、いつも機嫌のよい仲働きのお清が、殊にその時は一層晴れやかな笑顔をして、まるで宙に浮いたように佇んでいた。
「どうだい!」
まだ消え去らぬ喫驚した気持の中からそう云って、四五歩近づいてゆくと、お清はしなやかな指先で前髪の後れ毛を撫で上げながら、覚めたばかりの澄み切った眼を細めて、円い笑顔をにこにこと笑いくずした。
「ほんとにどうしたんでございましょう。私の方が寝坊なんか致しまして。」
その様子から言葉つきまで、平素書斎にやって来る折の、機嫌はよいが妙にかしこまった二十歳の彼女とは、全く人が違ったようだった。久保田さんは落凹んだ眼をくるくるとさした。
「どうしたんだって、そりゃ何も……。」云いかけてまたも眼をくるくるとさした。「わしは何だよ、今天文をみていた所だが、此度はお前の手相をみてあげよう。手をかしてごらん。」
躊躇してる所へ歩み寄って、彼女の片手を取ったが、生憎それは左手だった。然し久保田さんはそんなことを意に介しなかった。しなやかだと見える指先にまでみっちりと実がはいって、可愛くくくれた手首に至るまでの掌に、篦でつけたような柔かな筋が薄い皮膚を刻んでいた。
「ほう、お前もいい運だ。余りよすぎて悪いことが起るかも知れないが、兎に角いい運だ。」
呆気にとられてこちらを見守ってる彼女の眼に出逢うと、久保田さんは肩をぴくりとさして手を離した。
「兎に角いい運だ。大事にしなくちゃいけない。」
そう云いながら突然わきを向いて、庭の中を歩き出した。もう明るい光がさして、木の葉が一枚一枚輝いていた。雀の囀る声が急に耳についてきた。久保田さんは小さな木鋏を取ってきて、植込の枯枝を切ったりなんかしながら、朝食までの時間を庭で過した。
その日はいつもより頭がよくて、仕事がわりに捗った。そして夜は早めに寝た。
翌朝も久保田さんは早く起上った。庭を暫くぶらついていると、昨日
前へ
次へ
全9ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング