からではない。変に気が滅入ってきたからだった。なぜ俺はこう貧乏なんだろう! ……電燈の光は妙に薄暗いし、家の中は汚く煤けている。俺は馴れてるから分らないが、初めてはいって来る者があったら岐度、貧乏くさい臭いがしてると思うに違いない。
俺が黙り込むと、お久まで変に黙り込んでしまったし、子供達までがもそもそと、味なさそうな飯の食い方になっていた。こうなっちゃ助からない、と俺は思い初めたが、それが、威勢のいい格子の音で助かった。
やって来たのは池部だった。平素からてきぱきした男だが、その晩は何か昂奮してるらしく、殊に勢いづいていた。
「やあ、飯の最中か。丁度いい所へやって来た。実は君と一杯やろうと思っていたんだ。……お久さん、済まねえが、酒と何か一寸摘むものを、これで一走りしてくれませんか。」
そしてもう蟇口をあけて、五十銭銀貨を二枚取出して、それをちょんと餉台の上にのせた。
お久は暫く彼の顔を見ていたが、その視線の余波でちらと俺の顔を撫でてから、落付き払って云い出した。
「お酒なら、少しくらいは家にありますよ。それに、何もないけれど、※[#「魚+昜」、135−下−11]《するめ》に奈良漬くらいでよかったら……。」
「それだけありゃあ沢山。じゃあまた酒が切れたら願いましょう。」
そして彼はすぐに、五十銭銀貨を蟇口にしまい込んだ。実にはっきりしていた。それが却って俺には心地よかった。ただ少し不承なのはお久のやり口だった。
「酒があるならあると、早く云やあいいのに。実は俺は飲みてえのを我慢してたんだぜ。」
「それごらんよ、飲みたいのを我慢するだけの引け目が自分にあるじゃないか。……私もね、お前さんが美事調えてきてくれたら……と思って取っといたんだけれど……。」
いつも亭主をやりこめることばかり考えてる女だ、と俺は思ったが、人前で云い争うでもないので黙った。その上彼女は、一寸昔の可愛さを思い出させるような、上唇を脹らませる薄ら笑いを浮べていたので、俺も曖昧な笑顔をしてやった。けれど彼女の言葉を、池部は聞きとがめていた。
「何だい、その調えるとか調えないとかいうのは……。まさか、柄にもねえ仲人口を利いてるっていうんでもあるまいし……。」
「なあに、実は金の工面さ。」
「ああなるほど。」そして彼は如何にも腑に落ちたという顔付をした。「実は俺も少しいるんで心当りを探ってみたんだが、世間は不景気だね。」
「全くだ、世間は不景気だ。」
そして俺達は笑い出してしまった。この場合、世間は不景気だということが、すっかり気に入って嬉しくなったのだった。
酒の燗が出来て、※[#「魚+昜」、136−上−12]が裂かれて、杯を重ねてるうちに、池部は俄に改った調子で尋ねかけてきた。
「時に君の職の方はどうなったい?」
「ああどうにか、深田印刷の方にきまったんだがね、年内はもういくらもねえし、正月は初めのうち休みだてえんで、正月の十五日頃から出てくれと云うんだ。貯金があるじゃあなし、それまでの無駄食いに弱ってるんだ。」
「なあに、そいつあ先が安全だからいいじゃねえか。俺なんか、歳暮《くれ》の臨時雇だから、お先真暗で、心細いったらねえよ。……こうなったのも松尾の奴のお蔭だ。」
池部はじっと俺の顔を覗き込んできた。また何か計画《たくら》んでるんだな、と俺はすぐに感じたが、彼の言葉は意外な方面へ飛んでいった。
「君はあの後笹木に逢ったことがあるか。」
「ねえよ。」
「実はね、笹木の奴が松尾と共謀《ぐる》だったんだぜ。」
「え、笹木が!」
「そうさ。立派な証拠があるんだ。」
「どんな話だい?」
「どんなって、いろいろあるがね、初めの起りは、浅井が笹木の所へ金を借りに行ったことからなんだ。笹木が或る小さな印刷所を――端物《はもの》専門のちっぽけなものだが――その株を買って一人で経営してるっていうのを聞き込んで、ついのこのこ出かけていったものさ。行ってみると、手刷の器械が一二台あるだけで、まるで商売にもならないくらいなものなんだが、云うことが大きいや、ゆくゆくは大規模な印刷会社に仕上げてみせる、そうなったら、君も俺の所で働いてくれってさ。馬鹿にするないって気に浅井はなったそうだが、ちょいちょい言葉尻を考え合せてみると、どうしてなかなか、まんざらの法螺だとも聞き流せねえふしがあるんだ。……がまあそれはそれとして、浅井は少し借りてえときり出したのさ。すると奴《やっこ》さん、澄しこんだ顔付でね、大事な商売の金なんだが、まあ月に七八分も利子を出すんなら、五十円くらい融通してやってもいい、なんかって吐《ぬか》しやがるのさ。馬鹿にしてるじゃねえか。……浅井の奴、ぷりぷり怒りやがって、俺にその話をしてきかせたよ。そして二人で話し合ってるうちに、どうも腑に落ちねえことばかり出
前へ
次へ
全12ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング