いた。で心持ち息をつめて、此度はどちらへ落ちてゆくかと待受けてやった。やがて彼女は云い出した。
「一文も出来ないで、よくまあおめおめ帰って来られたもんだね。今日は岐度まとまった金を拵えて、お前を安心さしてやると云って、出かけたじゃないか。ほんとに意気地なしだね! さあ、今朝の言葉は何処へいったの? お金は何処にあるの?……愚図のくせに、極りが悪いということだけは知ってるとみえて、子供に玩具《おもちゃ》なんか買ってきてさ、その手で私を瞞そうたって、そうはゆかないよ。玩具買うお金があったら、お米でも買ってくりゃあまだ気が利いてるのに……。今頃までほっつき歩いてて、よく手ぶらで帰って来られたもんだね。傘を借りてくる所もないと見えて、雨にまで濡れてさ……。」
 なるほど彼女の言葉は、俺の痛い所へ触れていった。着物がしめっぽくなってることや、口実に玩具を買ってきたことや、当もなくぶらついたことなどを、ちゃんと見通したような口の利き方をしていた。けれど、彼女の心に映るのは、ただそんなことだけで、それから一重奥のことは、全く分らないのだ、と思いながら俺は云った。
「なあに、今にサンタクロースの爺さんが、どんな仕合せを持ってきてくれねえとも限らないさ。」
「何を云ってるんだよ、毛唐の爺さんと福の神とを間違えてさ!……またいつもの、お金を拾う夢でもみたんだろう。」
 俺は苦笑して何とも答えなかった。湿っぽい一張羅をぬいで、木綿の平素着と代えながら、冗談にまぎらして云った。
「早く飯にしてくれないか。腹が空《す》ききってるんだ、昼飯を食うのを忘れたもんだから。」
「え、昼飯も食べないでいるの!」
 同情したのか軽蔑したのか分らない調子だったが――恐らく両方だったろうが――兎に角彼女はすぐに食事にしてくれた。
 足のぐらぐらする餉台の上には馬鈴薯《じゃがいも》と大根とのごった煮と冷たい飯とだけだった。それでも空《すき》っ腹には旨かった。これで熱いのをきゅーっと一杯やれたら……とそんな気がしたが、さすがに口へは出せなかった。子供達までが、如何にも旨そうに食っていた。廻らぬ箸の先からこぼれ落ちる飯粒まで、一々拾って食っていた。
「どうだ、旨いか。」と自分でも知らないまに言葉が出た。
「うん。」と答えて信一は、馬鈴薯を頬張りながら眼をくるくるさした。
「みよ[#「みよ」に傍点]はどうだい?」
 みよ[#「みよ」に傍点]は何とも答えないで、きょとんと首を斜に動かしてみせた。
「おい、」と俺はお久の方へ向いて云った、「みんな旨そうに食ってるじゃないか。毎日旨く飯が食えりゃあ何もくよくよすることはねえよ。」
 お久はじっと眼を伏せていた。何かに心動かされたとみえて、涙ぐんだらしい瞬《めばた》きさえしていた。それでも溜息をつくことを忘れなかった。そして云った。
「せめてね、よいお正月だけでも迎えられるといいんだが……。」
「何を云ってるんだい! よい正月だか悪い正月だか、なってみなけりゃ分らねえさ。」
「そんな呑気なことを云ってるからお前さんは駄目なんだよ。今日を一体幾日だと思ってるの?」
「今日は歳暮《くれ》の二十八日さ。」
「それごらんよ、明後日《あさって》一杯きりじゃないの。」
 なるほどそう云えばそうだった。実は先達、質屋から厳重な通知が来ていた。お久の着物二三枚と子供達の晴着三四枚と――俺は枚数をよく覚えてはいないが――それを入質したまんま、もう六ヶ月も利子をためてた所が、来る三十日迄に利子を入れなければ、年末業務整理のため相流し可申候と、わざわざ筆で書き添えた督促状だった。お久に云わすれば、せめて子供達の着物だけでも受け出さなければ、よい正月は迎えられないそうだった。まあそれもいいとして、受け出すべき六十円余りの金の工面が問題だった。その他に俺としては、家賃や諸払や、半分でも入れとかなければ義理の悪い時借《ときがり》など、全部でかれこれ、百五十円ばかりは必要だった。職の方が漸くきまると、早速金の調達に奔走しだしたのだが、「こう押しつまっては……」と、何処も型のように断られた。俺の方では、押しつまったればこそ金がいるんだが、向うでは、押しつまったから金が出せないと云う。必要がさし迫れば迫るほど、益々途が塞ってくるわけだ。どうにも仕方がなかった。けれどまだ、ぎりぎりの瀬戸際までいったわけではない。
「じゃあ、その瀬戸際にいってどうするつもりだよ?」
 それが、お久の最後の鉄槌だった。まさか俺だって、其処までいったのにいい加減なことも云えないし、打挫がれて黙り込むより外はなかった。けれど……けれど……やはりまだ瀬戸際まで押しつまったわけではない。
「まあ、明後日までのうちにはどうにかするよ。」
 何だか俺は飯もまずくなってしまった。腹が少しばかり出来てきた
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