そして正月の十五日からは仕事にありつけるんだ。いくら貧乏したってそれまでの間だ。どうなったって構うものか。歩いてやれ、ぐんぐん歩いてやれ!
俺はどこまでも歩いていった。だが、泥濘《ぬかるみ》の道を足駄で歩いてるので、しまいには疲れてきた。少し休みたいなと思い思い歩いてるうちに、上野公園に出て、動物園があることを思い出した。
動物園の中は、昔来た時とはすっかり模様が変っていた。けれど馴染の象や熊は昔通りだった。俺はぼんやり一廻りしてから、大きな水禽の檻の前に腰を下した。年末のせいか、粗らに見物人があるきりで、ひっそりしてる中に鳥の鳴声だけが冴えていた。俺は鼻糞をほじくりながら、いつまでもじっとしていた。背中がぞくぞく寒かったが、それくらいは仕方なかった。薄曇りの雲越しに、どんよりした太陽がだんだん傾いていった。
そのうちに、身体が冷えると共に空腹を覚えだした。俺は苦笑しながら立上った。動物の餌にする煎餅の五銭の袋を二つ買って、両方の袂へ忍ばせた。その煎餅を体裁に二つ三つ象へ投げやってから、こそこそと動物園を出た。そして公園の木立の影を歩きながら、煎餅をかじった。その自分自身が惨めで仕方なかった。
煎餅をかじったのが、却って腹のためにいけなかった。大急ぎで呑み込んだ固いやつが、空っ腹の底でごそごそしてるような気がした。そして一時間[#「一時間」は底本では「一時問」]ばかりたつと、もり[#「もり」に傍点]を一杯食うために、饂飩屋へ飛び込まずにはいられなかった。
さて、晩になって、俺はまた昨日と同じような破目に陥った。いくら何でも、このまま家へは一寸帰りにくかった。笹木のことで池部が来るかも知れないと思ったが、それももう面倒くさかった。蟇口の底を見ると、まだ三十銭残っていた。お久が今日の運動費に入れてくれたのが、それで全部になるわけだった。何に使ってくれようかと思ってるうちに、ふと小さな活動小屋が眼についたので、本当に財布の底をはたいてその中にはいった。
所が、はいってすぐバットに火をつけてると、白い上っ張りをつけた女がやって来て、あちらで吸って下さいと云った。俺はおとなしくその狭い喫煙所の方へ行った。水のはいったブリキの金盥をのせてる小さな卓子を、粗末な木の腰掛が取巻いていた。俺はそこに腰を下して、卓子に両肱をつきながら、ぼんやり煙草を吹かした。弁士の声や華やかな映画や広間にぎっしりつまってる看客などから、変に気圧《けお》される心地がして仕方なかった。馬鹿馬鹿しいと思う心の下から、自暴《やけ》ぎみの反抗心が湧いてきた。何に対してだかは分らないが、なあに俺だって……という気持になった。そしてじっと考え込んだ。
俺はその時くらい孤独な感じに打たれたことはない。何もかも遠くなって、世界の真中にただ一人投り出された心地だった。弁士が饒舌り立てている、何百人もの人がぎっしりつまっている、表には満員の電車が通っている、慌しい大勢の足音がしている、自動車も走っている……然しそういうものは、みんなこの俺には関係のない他《ほか》の世界だ。俺はただ一人きりだ。この身体とこの生命とだけが俺の世界だ!……そう思ってると、非常に自由な晴々とした気持になっていった。俺は何でも出来そうだった。
そうだ、何でも! 無一文で正月を迎えることも……金がいるというなら、盗み取ってくることも……笹木に内通していくらか搾り取ってやることも……場合によっては、妻や子供を捨てて一人身になることも……あの神棚を打ち壊してやることも……何だって出来ないとは限らない。みんな寄ってたかって俺をどうしようというのだ? 打ちかかって来るなら来てみろ、俺は笑ってやらあ!
その時俺は、どんなことを考えたか自分でもよくは知らなかった。けれどただ、俺は非常に自由な力強い気になったのだった。何でも出来る雑多な力が、自分のうちにうごめいてるのを感じたのだった。そして輝かしいような気のする額を、汚い小さな卓子の上に伏せて、長い間我を忘れて考え込んでいた。
何だかあたりがざわざわするようなので、ふと我に返ると、丁度写真の代り目の休憩時間だった。四五人の者が喫煙所へはいって来た。俺は立上って、喫煙所から出で、活動小屋から外に出てしまった。
少し可笑しいぞ、と自分で思うくらいに俺は興奮していた。足が軽いし寒い空気が快いし、胸の奥まですーっと風が流れ込むし、ぱっとした街路の光までが物珍らしかった。こいつは猶更可笑しいぞ、と思ってるうちにぼーっとして、いつのまにか自分を取失ったような気持になった。だがやはりまだ晴々としていた。
それから俺は長い間歩き廻った。そしていつのまにか自分の家の近くまで来ていた。見覚えのある角の荒物屋に気がつくと同時に、誰かに後ろから肩を叩かれた――どっちが先だった
前へ
次へ
全12ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング