かなのか。」
「確かだともさ。」
 彼女は平然とそう云いきってるが、俺にはまだはっきり信ぜられなかった。二月《ふたつき》見る物を見ないというのも、母の病気や死亡の感動のせいかも知れないし、悪阻《つわり》だってないんだし……と俺は思ったが、悪阻がないことだってある、と彼女は云っていた。そう云えばそうかも知れない、もう出来てもいい時だから……。
「兎に角繁昌だね。」
「何が繁昌だよ、馬鹿馬鹿しい!」
 彼女はそう云い捨てて、一寸何か考えてる風だったが、変にくしゃくしゃな渋め顔をして、神棚にまた蝋燭をつけた。そして此度は何と云っても返辞一つしないで、じっと坐っていた。俺は「繁昌」で少し気を取り直していたが、彼女の黙りこくった執拗さにぶつかって、次第に気が滅入ってきた。「仕方がねえから死んじまおう、」と云ったら、すぐにも承知しそうな彼女の姿だった。ここで踏ん張らなければいけない……と思ったために、益々心が切羽詰った所へ落込んでいって、世界が薄暗くなってきた。で俺はお久をそのままに放っといて、子供達を見に行く振で、次の室にはいっていった。子供達は煎餅布団の中に、ぬくぬくと眠っていた。俺は横の布団に着物のままもぐり込んで「繁昌だ……繁昌だ……」とくり返したが、一人でに涙がぼろぼろ落ちてきた。頭から布団を被ったが、淋しくて仕方なかった。そっと手を伸して、みよ[#「みよ」に傍点]の頬辺を撫でてやった。するとみよ[#「みよ」に傍点]はふいに眼を覚して泣き出した。お久がやって来た。俺は寝返りをして、素知らぬ風に息を凝らした。雨の音がしていた。それに耳を澄してるうちに、いつのまにか眠ったらしい。
 夜明け方に俺は夢をみた。幾つもみたようだが、ただ一つきり覚えていない。馬鹿に広い綺麗な神棚があって、白藤の花みたいに御幣が一面に垂れてる下で、真裸の子供が幾人も踊っていた。みるみるうちにその踊が激しくなってきて、はては旋風《つむじかぜ》のようにぐるぐる廻り出した。危いなと思ってると、果して一人足をふみ外して落ちてきた。俺はそれを手で受け止めて、また神棚へ投げ上げてやった。後から後から落ちてきた。ゴム毬のようにころころした子供達で、すべすべの餅肌だった。いくら投げ上げても、代る代る落ちてきた。俺はもうすっかり疲れきりながら、いつまでも、落ちてくる子供を手に受けては投げ上げていた……。
 しまいにはどうなったか俺は覚えていないが、そのゴム毬のようにころころした餅肌の子供を神棚に投げ上げてる所が、眼覚めて後もはっきり頭に残っていた。何とも云えない忌々しいような嬉しいような、変梃な気持だった。
 俺はぼんやり考え込みながら、神棚の方をじっと眺めやった。大根〆も御幣も黒く煤け、閉めきった扉の屋根とには、蜘蛛の巣が破れながら懸っていた。お久は手をつけるのが勿体ないとでも思ってか、母が死んで以来掃除をしたこともなかった。そしてその煤と埃との中に、榊の緑葉とその花立と真鍮の蝋燭立とが、なまなましい色に浮出していた。それを見てると、俺は変に落付かない気持になった。その上お久は、また金の工面のことで俺に訴え初めた。俺は一切のことから逃げ出すような気で、十時頃から外に出かけた。さも当があるような風で、爪を切ったり髯を剃ったりして、また一帳羅の銘仙をひっかけていった。
 然し実は、当なんか全然なかった。少しでも融通してくれそうな所は、みな駈け廻ってしまった後だったし、いついつまで返事を待ってくれと云って、暫くでも俺の希望を繋がしてくれる[#「繋がしてくれる」は底本では「繁がしてくれる」]者さえ、一人として残っていなかった。俺はただ一つ処にじっとしていないために、犬も歩けば棒に当るというくらいな気持で、ぶらりぶらり歩いたのだった。もう松や笹を立て並べて、年末の売出や買物に賑ってる街路を、俺は野放しの犬のように、鼻をうそうそさせながら、足の向く方へと歩いていった。人の手前では、まだどうにかなるだろうという、痩我慢の気持になることも出来たが、往来の雑踏のまんなかに、寒い風に吹かれてる一人ぽっちの自分を見出すと、もうどうにも仕方がなかった。昨夜の雨は雪にならずに済んだが、そのため却って道路がぬかってるし、空は薄曇りに曇って、いつまた冷いものが落ちてこないとも分らなかった。せめて外套でもあればまだ気が利いてるけれど……。どうして俺はこう貧乏なんだろう? どうして仕事もないんだろう? どうして世の中に正月なんて区切がついてるんだろう?……つくづく俺は自分の身がなさけなくなった。力一杯に働いていて貧乏するのならまだいい。仕事がなくて食えないほど惨めなことはない。どうして俺はもっと早く仕事を見付けなかったんだろう?……だがまあいいさ、四十九日が過ぎるまで母の喪に籠ったのは、せめてもの仕合せだ。
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