れど、辛棒して下さいよ。どんなに長くなっても一ヶ月で帰って来ます。」
母はそう言って、家計簿をはじめすべてのものを、私の手に渡した。
思えば、表面は全く平穏無事で、何の風波もなかった。然し、母の心の中には、さまざまな暴風雨が荒れたことだろうと、私は自分の心中を顧みながら、推察するのである。私の方では、家庭という観念に変革が起って、新たな探求をこれから実践しなければならない。母はどういう途を歩むつもりであろうか。遅くも一ヶ月後には帰ってくることは確かだ。私は母を悲しみ、また心から愛している。これからは理解がゆこうとゆくまいと、何でも母に打ち明けて話すことにしようかしら。決して物の分らないひとではない。
東京駅まで、私は母を見送った。母は静かなやさしい眼色だった。列車の去ってゆくのを眺めて、私は眼に涙をためた。それから、この手記を書くことを思いついた。自分自身のためにである。吉川にも決して見せはしない。けれども母には見せる気になるかも分らないし、その気にならないかも分らない。私の心境だってまだあやふやなのである。
母の不在の間に、翻訳をも少し進捗さしておきたいと思う。一冊の書物にで
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