なんにも用事がないのがわたしはいちばん嫌ですよ。かりに、あなたが胃をいためて一年寝ようと、胸をいためて二年寝ようと、つきっきりで看病してあげます。まあ縁起でもないことを言って、気をわるくしてはいけませんよ。安心していらっしゃい。わたしはね、動き廻ってるのが、いちばん嬉しいんですよ。」
私に気兼ねさせまいとの心遣いからではなく、ただ、母は卒直に言ってるのだと、私は感じた。働くことの嬉しさを私に教えてるのでもなかった。そして妙なことには、その卒直な言葉が、私の気持ちを却って白々しくさせた。私は母に対して一種の畏怖の念さえ懐いたのである。
思いがけないことが起って、私は、謂わば深淵を覗いた。
或る日の午後、駒込の伯父さまがいらして、母と何か話しこんでいかれた。同じ吉川姓で、亡くなった父の兄に当る人である。
私はだいたい、実家の方の縁故の人が来た時は、その時に平気で坐りこむが、こちらの縁故の人が来た時は、遠慮してなるべく席を避けることにしていた。それに、伯父さまと母とのその日の対談にはなにか内緒事があるらしい感じで、私がお茶をいれかえに行ったり、果物をむいて持って行ったりする度に、伯
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