さいとか、母はこまかく注意した。まったく、今日はお洗濯をして宜しいでしょうか、と同じことである。然し、母が吝嗇だったというのではない。
 私の或る翻訳原稿が、雑誌に採用されることになり、その原稿料を持って、津田さんが遊びに来たことがある。なにしろ小さな雑誌で、稿料のことも編輯長に一任したものだから、これだけになったが、こんどからも少しせりあげてみせるつもりだし、その時はビールでも飲みましょうと、津田さんは笑って、だいぶお饒舌りをして帰っていった。その時貰った三千円を、私は母へ差出した。

「まあそれは、よかったわねえ。ほんとによかったよ。これからも勉強なさい。いつ出ますか、その雑誌は。出たら二冊貰って下さいよ。一冊はあなた、一冊はわたしが頂きますから。」
 母が喜んでるのは、雑誌のことだった。原稿料の方については、貯金にでもしておくんですね、と無雑作に言った。
 ところが、その後、私は銀座に出たついでに、原稿料で、母へ羊羹を一折買い、吉川のために上等の絹靴下を三足買った。羊羹については、母は何とも言わず、上等の方のお茶をいれて、私と一緒に食べた。食べながら、靴下の方をたしなめた。このような靴下は上等すぎてすぐにいたむから、今後買う時は、わたしに相談なさい、といつもの調子なのである。つまり、お菓子をたべたりお茶を飲んだりするのは、友だちとの交際と同じで、私の自由だが、実用的な品物を買うのは、母の管轄だというのであろう。
 そのようなこと、私にはおかしかったが、たどたどしい針仕事などをしながら、なにかしら物思いをしていると、次第に、大変なことを発見してきたのである。
 結婚生活というものは、自分の家庭を持つことであり、その家庭の中で主婦としての地位に就くことである。それは自明の理だ。ところがこの家の中で、私はどういう地位にあったか。いろいろ振り返ってみると、私は単に女中に過ぎなかったのではあるまいか。
 吉川はだいたい無口だし、面白い話題もあまり持ち合せなかった。話といえば新聞記事以外には殆んど出なかった。時たま酒を飲んでくると、専門の経済学の知識を披瀝しだすこともあったが、私にも母にもそれは通ぜず、殆んど独語に終った。終戦近くなって召集され、穴掘りばかりして来たことが、唯一の特殊な話題だった。つまり、平凡で善良な会社員で、家庭はただ食堂と寝所に過ぎなかったろう。その代り、気むずかしい点もなく、要求も少く、私は単に侍女であればよかった。
 家庭の全権は母にあった。家計はすべて母が監理していたし、買物まで一々監督していた。私はすべてのことを相談しなければならなかった。今日はお洗濯して宜しいでしょうか。それで万事が尽される。女中だ。お給金千円の女中だ。主婦として行動し得る余地はどこにもなかった。
 辛いのは、起床の時間が一定してることだった。六時きっかりに起きなければならない。母がその時間に起き上るからである。たまには日曜日など、朝寝坊したいこともあったし、吉川はゆうゆうと寝ているのに、母が六時に起きるので、私も必ず起き上った。
 ただ一つ、文学、といってもつまらぬ翻訳だけだが、その点は母の代行をするのだった。つまり、母にとっては、私がその夢想の後継者であったろう。夢想の後継者で、そして日常生活では女中、いずれにしても、自主的な主婦とは縁遠い。
 或は、一歩退いて考えてみるに、日常生活に於ても母は私を後継者に仕立てるため、些細な点まで訓練しようとしてるのかも知れなかった。すっかり母の型にはまるまで、女中の地位に置いて独り歩きをさせなかったのではあるまいか。然し、それにしては、おかしなことがあった。
 風邪をひきこんで、私は一週間ばかり寝たことがある。その時母は実母にもまさるほど親切にいたわってくれた。熱の高い時は、夜遅くまで起きていてくれ、夜中にも起上って氷枕を取り代えてくれた。検温、服薬、食事、すべて一定の時間にしてくれた。食物にも気を配ってくれた。そういう看護を、母は少しも面倒くさがる様子がなく衷心から自然にやってくれたのである。そして一方で、日常通りに家事を運行していった。私は感嘆し、また感謝し、涙で枕をぬらしたこともある。
 母はなかなか私を起き上らせてくれなかった。すっかり全快するまではだめだと言うのである。漸く許されて、布団を片付け、ふだんの着物をき、私は母の前に手をついて言った。
「ほんとにお手数をかけました。ありがとうございました。お疲れになりましたでしょう。」
 胸が一杯になって、長い言葉は出なかった。
 母は何の感慨もなさそうに、けろりとしていた。
「まあ、早くなおってよかったですね。わたしのことなら、疲れもなにもしませんよ。手がかかるといったって、家の中のことですからね、仕事は多いほど張り合いがあっていいんです。
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