新妻の手記
豊島与志雄

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(例)小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]
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 結婚してから、三ヶ月は夢のように過ぎた。そして漸く私は、この家庭の中での自分の地位がぼんやり分ってきた。
 家庭といっても、姑と夫と私との三人きり。姑はもう五十歳ほどだが、主人の死後、長年のあいだ一人で家事を切り廻してきたひとで、気力も体力もしっかりしている。夫は会社員である。さして生活に不自由しない程度の資産があり、都の西郊にある家は、こじんまりしているが庭が広く、裏には竹籔と杉の木立がある。私は三田の叔父さまの世話でここに嫁いできた。もとより、見合い結婚で、恋愛なんかではない。女学校の先生を少ししていたのをやめて、荷物と一緒にこちらへ来てしまった。家庭生活についての希望とか抱負とかも、大して持ち合せてはいなかった。――そして今、はっと何かに突き当った感じである。
 姑、というのもへんだし、義母、というのもへんだから、単に母と呼ぶことにするが、母は、私にたいへんやさしく親切だった。私が来るまで、親戚の娘さんが、家事の手伝いみたいな恰好で寄宿していたが、私達夫婦が新婚旅行から帰ってくると、入れちがいに実家へ帰って行った。私が気兼ねするだろうと、そういう処置をしてくれたのも母の配慮によることらしい。
 夫が朝早く、鞄に弁当箱をつっこんで出かけた後、夕方帰ってくるまで、退屈なほど隙だった。鶏が数羽飼ってあり、庭の隅に小さな野菜畑があったが、そんなもの、大して手もかからなかった。なまじっか女学校などに勤めていたため私は、よけい時間を持て余したのかも知れない。母は着物の縫い直しものや繕いものをやってることが多かった。それを手伝おうとしたけれど、私には和裁がよく出来なかったし、母も教えてくれなかった。さし当って、ミシンを踏む材料もほとんどなかった。母はいろいろなことを私に話しかけた。若い頃作ったという和歌などを口ずさんで聞かせた。調子の低い甘っぽい歌ばかりである。それでも、昔は小説まで書いてみる志望があったらしい。
「あなたも、隙のようだから、なにか原稿でも書いてみたらどうですか。」
 母のそういう言葉は、私には全く思いもかけないことだった。もっとも母は津田芳子さんのことを知っていた。津田さんは私の友人で、小さな婦人雑誌の編輯をしている。以前、私はちょっとした翻訳物をその雑誌にのせて貰ったことがある。母は言う。
「わたしの若い頃のお友だちに、木村さんという才媛がいましてね、小説、戯曲、詩、歌、なんでも書きましたよ、あまり才気が多すぎたため、何一つ本物にはなりませんでしたが……。やっぱり、何か一つのことに気を入れなければいけないとみえますね。」
 その才媛というのが、実は母自身の若い頃の姿だったのかも知れない。母は老いてもなおふっくらとしている頬に、思い出の笑みを浮べている。私も頬笑んだ。
「物を書くことなんか、あたくしにはとても出来ませんわ。翻訳なら、少しやったことがありますけれど……。」
「翻訳でも結構じゃありませんか。やってごらんなさいよ。何事でも、若いうちにしておくことです。」
 母は若い頃の夢をまだ見つづけているのであろうか。然し、そういう夢を引き継ぐのは、私には楽しいことだった。私は津田さんを訪問して、翻訳の相談をした。翻訳といっても、私には英語しか出来ないし、津田さんとこの雑誌の性質上、イギリスの民話や家庭的なコントの類を選ぶことにした。
 ところが、翻訳というものは、遊び半分にやるのならともかく、真面目にやるとなると容易なものでないことが、初めて分ってきた。第一、或る程度の時間継続して、他事を顧みずに注意力をそこに注がなければならない。独身中はそれも出来たが、人妻となってみれば、いくら隙だからとて、やはりあちこちに気を配っていなければならない。玄関の呼鈴の音にも、裏木戸の音にも、すぐに応じなければならない。女中のいない家では、主婦が女中の役をも兼ねるのである。この注意の分散は、私の頭を二重にも三重にも疲れさした。その上、隙だといっても、一軒の家の中には相当の用事がある。掃除や炊事や洗濯など、入念にやればきりがないし、買物や来客の接待などもある。翻訳の仕事など、私は半ば投げ出してしまった。
「少し出来ましたか。見せてごらんなさい。」
 母はそう言って、原稿を見たがった。たとえ一枚でも二枚でも、原稿を見れば満足らしい。そしていつもほめてくれた。前に読んだ分まで繰り返して眼を通した。
「りっぱに出来ましたね。続けておやりなさい。」
 母はまるで、自分の仕事を自分で鑑賞
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