なんにも用事がないのがわたしはいちばん嫌ですよ。かりに、あなたが胃をいためて一年寝ようと、胸をいためて二年寝ようと、つきっきりで看病してあげます。まあ縁起でもないことを言って、気をわるくしてはいけませんよ。安心していらっしゃい。わたしはね、動き廻ってるのが、いちばん嬉しいんですよ。」
私に気兼ねさせまいとの心遣いからではなく、ただ、母は卒直に言ってるのだと、私は感じた。働くことの嬉しさを私に教えてるのでもなかった。そして妙なことには、その卒直な言葉が、私の気持ちを却って白々しくさせた。私は母に対して一種の畏怖の念さえ懐いたのである。
思いがけないことが起って、私は、謂わば深淵を覗いた。
或る日の午後、駒込の伯父さまがいらして、母と何か話しこんでいかれた。同じ吉川姓で、亡くなった父の兄に当る人である。
私はだいたい、実家の方の縁故の人が来た時は、その時に平気で坐りこむが、こちらの縁故の人が来た時は、遠慮してなるべく席を避けることにしていた。それに、伯父さまと母とのその日の対談にはなにか内緒事があるらしい感じで、私がお茶をいれかえに行ったり、果物をむいて持って行ったりする度に、伯父さまはまるで取ってつけたように、私に向って、もうすっかり家事に馴れたようですねとか、いいお嫁さんになってお母さんも安心ですよとか、お世辞めいたことを言われるので、私はそこに居づらかった。
そしてその晩、母は私に肌襦袢の縫い物を言いつけておいて、吉川の室で、長い間話しこんでいた。なにか大事な用件らしく私にも思えた。
ところが、そのあとで、母が寝てしまってから、吉川から聞くと、事柄はつまらないが、ちと妙な話だった。
駒込の伯父さまは、戦災の焼け跡に、五室ばかりの瀟洒な家を新築して住んでいる。伯母さまは先年亡くなり、伯父さまは元内務省の官吏上りで、今はどこにも勤めず、ぶらぶら遊んでいる。長男の泰治さん夫妻と四歳になる孫娘が一緒に暮しており、泰治さんは農林省の役人である。ところで、泰治さんの奥さんが妊娠していて、お産はあと半月ばかり後の予定だそうだが、その時には近くの産科病院にはいることになっている。さて、問題はその入院中のことだ。女中が一人いるけれど、まだ十六歳の田舎出の小娘で、大して役に立たず、家の中のことから病院への面倒まではみかねるし、四つの娘の世話だけで手一杯である。家政婦を雇おうにも、よい人柄の者はなかなか見つからないようだし、伯父さまがだいたい家政婦というのを嫌いらしい。そこで、奥さんの入院中だけで結構だから、こちらの母に来て貰えまいか、ただ家の中に坐って指図だけしてくれればよい、との頼みだった。
よく考えてみて、家の者とも相談してみよう、そう母は答えたそうであるが、実は駒込の家に行くのが嫌なのである。そして私が代りに行ってくれまいかとの意向であり、先ず吉川に相談してみたのだった。
私は少し驚いた。まあ二週間か三週間、長くて一ヶ月、女中のつもりで行っても構わないが、あちらの人たちとは全く馴染みはないし、多分何の役にも立つまい。母なら、万事先のことを心得てるし、もともと伯父さまからも母への頼みなのである。
吉川も少し当惑してる風だった。
「どうしてお母さまはお嫌なんでしょう。」と私は尋ねてみた。「なにか気まずいことでもおありになるのかしら。」
「そんなことはない筈だ。いつも往き来してるんだからね。」
「忙しいのがお嫌な筈もありませんわね。働くことが好きだと言っていらしたんですもの。」
「むしろ、何にもしないでじっとしてるのが嫌な方だよ。」
「あたしによその家を見学させるおつもりでもないでしょう。」
「そんなことはないだろう。」
「よその家に泊るのがお嫌なのかしら。」
「僕もそうかと思って、聞いてみたら、駒込の内には二度ばかり泊ったことがあるじゃないかと、逆襲されちゃったよ。」
「あたしには分らないわ。」
「僕にもよく分らない。だが、長く家を空けるのが嫌なのかも知れない。一日か二日ならいいけれどねえと、お母さんは言ったよ。」
とにかく、母の気持ちを穿鑿したってどうにもならないことだった。そして結局、私が代りに行くことを承諾するより外はなかった。然し伯父さまの方へは、その旨を打ち合せておかなければいけなかった。
翌日の晩、だいぶ遅く、吉川は酒に酔って帰って来た。珍らしく不機嫌で心平らかでない様子だった。
「駒込の家に行って来ましたよ。」
母にそう言ったきり、洋服のまま炬燵にもぐり込んで、口を噤んでしまった。暫くして顔を挙げ、私に言った。
「紅茶をいれて下さい。」
その丁寧な語調によって、吉川が私にまで怒ってることが分った。私は腑に落ちなかった。母も不審そうな面持ちをしていた。私は母にもし会社を早めに切り上げられたら、吉川は駒
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