分りました。」と母は声を抑えて言った。「あちらでそのつもりならこちらでも、もう留守居なんかに行ってやりません。」
 それから間を置いて、少し震える声で言った。
「わたしは隠居しますよ。ええ、隠居しますとも。」
 母まで怒ってるようで、もうめちゃくちゃだった。私には取りなすすべがなかった。
 母は黙って寝室へ去り、吉川はまた酒を飲んで、同じく黙って寝室へ去った。私は後片付けをして、炬燵でしばらく考えこんだ。家庭の雰囲気がばらばらになったような、そしてへんにしみじみとした夜だった。このような夜は、嫁いで来て初めてのことである。
 翌朝まで、その気分は残っていた。母はまだ怒ってるようだった。
 ところがその午後、母は私に言った。
「わたしは、いろいろ考えましたがね、やはり隠居することにきめましたよ。」私の方でびっくりした。
「あら、隠居なんて、おかしいじゃございませんか。」
「いいえ、意地にもしてみせます。わたしはただ、この家を護り通すために、長年苦労してきました。家を護り通す、そのことだけを心掛けて族行もしませんでした。けれど、もう大丈夫でしょう。家の中の仕事がなくなるのは、何より淋しいことですが、ほかに楽しみを見つけましょう。あなたがしっかりやっていって下さいよ。それから、文学の方も、忘れずに勉強して下さいよ。」
「お母さま、急にそんなこと言い出しなすって、どうなすったの。今迄通りで宜しいじゃございませんか。」
「ええ、今迄通りで、別に変ったことはしませんよ。」
 母はまじまじと私の顔を見て、淋しそうな頬笑みを浮べた。
 その時から、私にも母の気持ちが分ってきたようだ。母の言葉の家を、家庭の意味に私は理解する。結婚した女にとって、家庭は一城一廓と同じもので、主婦はその一城一廓の主人だと、誰かの文句にあったように覚えている。家庭の中で任意に処理出来る仕事を持つことは、一城の主人たる証左であり、そういう仕事を失うことは、主人たる地位を失うことに外ならないだろう。母はそういう仕事に執着してきたに違いない。そのためには、私を女中同様の地位に放置しても意に介しなかった。また、三週間かそこいらの間、他家へ留守居に行くことも、本当の女中でない嫁の私が控えているため、少くともその間は、城主たる権力を私に引渡すことになるのを、たとい無意識にせよ感じたのだろう。その気持ちの奥底を、隠居云
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