々の切先で抉られたのだろう。主婦の悲しい宿命である。そしてこの宿命は、家庭という観念の変革なくては、免れることが出来ない。おお、なんとばかばかしい観念であることか。それは政治的権力の観念とよく似寄っている。そんなものは、実は私には用がなかった筈だ。女中の地位などということに私が突き当ったのも、家庭の旧観念に私が囚われていたからではないか。家庭内の権威と、文学への夢想と、私を対象としての母の矛盾した態度は、いま、私には悲しいことに見える。
 だが、一週間ばかりの間は何のことも起らなかった。駒込の伯父さまからは何の便りもなかったようだ。私はつとめて、そして安らかな微笑を以て、万事につけ、今日はお洗濯をして宜しいでしょうかを、母に尋ねた。母はいつもの通り指図をしてくれた。
 そして或る晩、母はふいに、しばらくの間、和歌山にある生家へ行ってきたいと言いだした。久しく行かないから、先祖の墓参かたがた訪れるのだと言う。引き留める理由はなにもなかった。駒込の伯父さんへの口実も立つと、吉川は陰で私に、ばかなことを言った。男というものは、女の心理についてはまったく近視眼であるらしい。
「淋しいでしょうけれど、辛棒して下さいよ。どんなに長くなっても一ヶ月で帰って来ます。」
 母はそう言って、家計簿をはじめすべてのものを、私の手に渡した。
 思えば、表面は全く平穏無事で、何の風波もなかった。然し、母の心の中には、さまざまな暴風雨が荒れたことだろうと、私は自分の心中を顧みながら、推察するのである。私の方では、家庭という観念に変革が起って、新たな探求をこれから実践しなければならない。母はどういう途を歩むつもりであろうか。遅くも一ヶ月後には帰ってくることは確かだ。私は母を悲しみ、また心から愛している。これからは理解がゆこうとゆくまいと、何でも母に打ち明けて話すことにしようかしら。決して物の分らないひとではない。
 東京駅まで、私は母を見送った。母は静かなやさしい眼色だった。列車の去ってゆくのを眺めて、私は眼に涙をためた。それから、この手記を書くことを思いついた。自分自身のためにである。吉川にも決して見せはしない。けれども母には見せる気になるかも分らないし、その気にならないかも分らない。私の心境だってまだあやふやなのである。
 母の不在の間に、翻訳をも少し進捗さしておきたいと思う。一冊の書物にで
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