見つめました。木村さんは卒直な驚きの表情で、眼をまるくして、近寄ってきました。私はくるりと後ろを向きましたが、とっさに、涙が出てきて困りました。駆け出して、溝の中にとびこんで、涙をふきましたが、あとは、へんに白々として淋しい気持で、木村さんがやって来ても、口を利く気がしませんでした。「どうかなすったのですか。」「いいえ……。」そして私は強いて微笑みましたが、なぜか、蒼白い微笑というような感じが胸にきて、妙に身体の硬ばるのを覚えました。そして浅間葡萄の茂みの上に腰を下し、わざと、煙草を一本もらって、戯れにふかしました。
 すぐ後ろの方、見上ぐるばかりに聳えてる浅間山の横手から、大きな夕立雲が盛上っていて、それが太陽をかくし、六里ヶ原は半ば影になって、冷々とした空気が流れていました。が遙か彼方の空は、一杯に日の光を含んで、白根や万座の山々がくっきりと浮出していました。それらの広茫たる景色を眺めていますと、私はひどく心細くなって、もう木村さんのことなんか頭になく、相変らず悠々と歩いてくる野口の姿を、力強く感じました。けれどその力強さは、自分の孤独感を益々深めるような性質のものでした。夕立雲は、見上げていると、むくむくとふくれ上って、今にも凡てのものを蔽いつくそうとしてるがようでした……恰度、数日前のように……。
 あの時、私達は家の縁側にいて、夕立雲が空を呑みつくしてゆくのを眺めていました。雲に空がかくれて、向うの小山から谷間へかけて、暗澹とした影がたれこめたかと見るまに、ぱらぱらと大粒な雨がきて、いきなり、ぴかりと……それはもう光とも響きともつかないものでした。私は室の奥にとんで行きました。するともう、激しい驟雨で、その間をぬって、ごうっとひどい雷です。それでも野口は、縁側で煙草をふかしながら、落着き払っています。いくら危いと云っても、笑っています。やがて一際はげしく、大地に岩石でも叩きつけるような擾乱が起って、私はそこにつっ伏してしまいました。暫くして、ほっと我に返り、おずおず顔をあげてみると、野口は私の側にいてくれましたが、やはり、愉快そうに外の雷雨を眺めていました。そして私の方を顧みて、大丈夫だよ、恐いと思えば恐くなるし、痛快だと思えば痛快になるものだ、と云って微笑しましたが、その時また、ぴかりときたのが、彼の近眼鏡にぱっと映って、その後から、不敵な眼付が覗きだしました。……不敵な……おう、それは、彼の側にいてさえも、私の心に孤独な感じを与えるものでした。
 ――「あんな場合には、誰だってそういう気持がするものだ。それをくよくよするのは、生活力の欠乏のせいだ。」と野口は申します。
 だけど、そればかりでしょうかしら。野口は私をいたわってはくれますが、少しも庇ってくれようとはしないように、私には本能的に感じられるのです。六里ヶ原でもそうでした。夕立雲の暗澹たる影のうちに、火山灰の荒野のうちに、ぽつねんとしてる私の方へ、彼は泰然としてやって来ました。微笑して、犬か猫をでも見るような眼付をしていました。「もう遊び疲れたという恰好だね。」それに応じて木村さんが、「ほんとに、奥さんは今日はばかに元気でしたね。」……その言葉が、私を夢想から引出しました。私は思いきって敵意ある眼付を、木村さんに投げつけてやり、冷淡な眼付を、野口に投げつけてやりました。
 夕立雲に木村さんはいささか慴えていました。もう迎いの自動車が来てる時分だというので、分去の茶屋へ引返しました。野口と木村さんとが火山のことを話してる後ろから、私はしつこく黙ってついていきました。やはり雷が恐かったのです。
 私の胸の中には、線香花火の火花みたいなもの、ぱっと光ってすぐに消える何かが、いつのまにかはぐくまれていました。それが光ってる瞬間には、私は浮々として、神経の発作にでも駆られてるようで、何を仕出来すか分らない気がしましたし、それが消えてしまうと、気分が沈みきって、深い憂欝に囚えられるのでした。私はなるべく賑かな処へ、木村さんを誘い出しました。グリーン・ホテルへ屡々行き、軽井沢の方へ幾度も出かけました。また、附近の別荘は、星野温泉を中心にして、一区劃をなしていましたので、音楽会、絵画展覧会、子供のための談話会、仮装余興会、そんなものが催されまして、私はつとめてそれに出てみました。野口は、そういう場所やそういう事柄を軽蔑してるらしく、何等の興味も示しませんでした。木村さんは、快活に面白がったり、打沈んで夢想に耽ったりしていましたが、そうした気持の晴曇が、私の心に触れてくることが多くなりました。
 野口は私たちを置きざりにして、よく一人で出かけることがありました。湯川の小さな溪谷を小瀬の方へさかのぼったり、浅間の麓の森林地帯を、あちこち探険したり、軽井沢への山越えの間道を、踏
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