査したりしました。そして、人影も殆んど見られない淋しい自然の中に、勇敢にはいりこんでゆく彼の姿は、なぜとはなしに、野性の獣という言葉を私に思い出させました。歩き疲れて帰って来ますと、その朗かな、何か混濁したものを払い落してきたような様子に……おう、私は見覚えがあるのです。
東京で、時折、野口が賤しい女に接することがあるらしいのを、私はいつしか感ずるようになっていました。私は病身なせいもあるかも知れませんが、そればかりでなく、野口はあの頑健な身体にも似ず、至って性的欲求に淡白なのを、私はよく知っております。それなのに、ごく稀にせよ、賤しい女に接するとは、どうしても私の腑に落ちませんでした。然しそれも、はっきりそうだと断定は出来ませんし、ただ一種の勘で感じるだけのことでした。それとなく探りをいれてみますと、野口は一言で否定してしまうか、または、たまには家庭外の飯を食うのも男にはよかろうなどと、冗談にしてしまいます。真実のことは掴めませんでしたが、それでも、そうした場合、何だか一種異様な匂いが私の胸にくるのでした。へんに快活で朗かで、そして私にはいつもよりやさしく、身内が軽々と澄んでるのに、身体の表皮だけが汚れてる……云わば、変な例えですが、廁から出て来た時のような、そんなものを私は感ずるのでした。彼がいくら酒に酔って、夜遅く帰って来ても、私は平気でしたが、一種異様な匂いを感ずる時は、とても嫌で、なさけなくて、姿を消してしまいたいという気がすることさえありました。それは、人生の美しい夢を踏みにじるもののように思われました。……その、異様な匂い、それと恰度同じようなものを、戻って来た「野性の獣」に私は感ずるのでした。
そうした晩には、彼はきまって、よく酒を飲み、よく食べました。酒飲みはあっさりしたものが好きだと聞いていましたし、野口もふだんはそうでしたが、然し右のような時に限って、彼はしつっこいものを好みました。鯉や豚の脂肉や鶏の臓物など、見ただけでもむかむかするようなものを、荒噛みでのみこみ、そしてやたらに杯をあけます。胸まで赤くほてり、手の静脈が太く浮出します。そしてぎらぎらした眼を見据えながら、人間の生活と一般動物の生活とを比較して話し、人間だけが起床就寝を太陽と共にしないことだの、人間の皮膚の薄弱と内臓の虚弱とが正比例することだの、それから、理知、神経、感覚、感情……感情のことまでも彼は論ずるのです。……私達の夫婦生活の最初の日から今日に至るまで、一日一日と、彼の感情は平静にそして鈍重になってきたのを、私はよく知っております。そしてこれから先、更にどうなってゆくことでしょう。理想から現実へ……それは立派な言葉でしょうけれど、また、美しい夢を追払って動物性へ逆行することではありませんでしょうか。
――「お前は自分の感情を自分の食物にしたいのだろう。然し、自分以外のものを消化するだけの丈夫な胃袋を持たなければいけないんだ。」そう野口は皮肉に申します。
私の胃袋は……重苦しい食物をあまり受付けず、ともすると軽く痛みだす、病弱な胃袋ではありますけれど、自分以外のものは消化出来ないほど貧弱なものだったでしょうかしら。いいえ、私はいろんなものがほしかったのです……。ダンスもしたいし、音楽もやりたいし、馬に乗りたいと思ったことさえあります。けれど、浅間山に登って噴火口を覗くようなことは……それは野口一人に任せておきました。
別荘の人たちが数名で、浅間登山をしました。私にはとても行けそうにありませんでした。遠くから見てる方が美しい、と木村さんも云いました。雄大にそしてゆったりと聳えて、うすく煙を吐いてるその姿は、朝も昼も晩も、いつ見ても美しいものでした。
登山は、夜の十二時頃出発して、夜明け前に頂上につき、噴火口を覗いて、それから日出を見るのだそうです。そして普通は、小諸へおりるのが順路ですが、野口の主張で、少し嶮岨だが山道をつたって、血の池を見、追分へ出るとのことでした。「こちらから見えるあの岩の間を、降りてくるんだ。明日見ていてごらん、相図をしてみせるから。大丈夫危いことなんかあるものか。たとえあったところで、手足の皮をすりむくくらいだ……。」だけど私は、そんな危険のことなどを考えてるのではありませんでした。私は、噴火口に身を投げて死ぬ人たちのこと、その人たちの心の中などを、考えてるのでした。もしも私が、この病弱な孤独な……孤独という感じを持つのは、私の方がいけないのでしょうかしら……その生活を悲しんで、そして……いろんなことがあって……野口に、一緒に死にましょうと云ったら、野口はどんな顔をするでしょう。自殺者などとは余りにもかけ離れた人種のように、その時私は野口のことを感じました。それが私にとっては、どんなに淋しいことだった
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