か分りません。草鞋脚絆に、水筒と弁当とを背負った、元気ないでたちの人々をのせて、峯の茶屋まで行く自動車が、闇の中に消え去ってゆくのを、私はじっと見送りました。野口は最後に、散歩にでも行く時のような一寸した笑顔を私に見せたきりでした。私の存在なんか、彼にとっては何でもないのです。
他の人たちが戻っていった後まで、私はぼんやり立っていました。気がついてみると、木村さんも私の側に佇んでいました。そして二人で、無言のうちに、私の家の方へ歩き出しました。すぐ近くですが、真暗な木立の中の坂道です。木村さんは私を送ってきてくれるのだ、そして木村さんの旅館の戸は夜通し開いてる、そんなことが分っていました。木村さんの片手の懐中電燈の光が、ちらちらと足もとだけをてらします……。
十二時頃は、山の中では、もう真夜中です。生きてるものの気配もなく、しいんと静まり返っています。木村さんは首垂れて、妙にしょんぼりとした姿で、力のない歩み方でした。ふと何か……気になって、私は立止って、木村さんの顔を見ました。暗くて何にも分らず、声だけが聞えました。「どうしたのか、私は……あの、噴火口で死ぬ人たちのことを、考えていたものですから……。」私はぞっとしました。「私も……。」と云いかけて、そして何に堪えられなかったのか、よろけるようになって、あの人の肩にすがりつきました。近々と、薄い闇を通して、あの人の、美しい澄みきった眼が見えました。その時、ふいに、懐中電燈の光が消えて、あとに残ったのは、三十男の独身者の、でも少しも男臭くない、かすかな香水の匂いでした。かすかではあるが……夢……にしては余りに強すぎました。私は一方では歯をぎりぎりかみしめながら、そして一方ではうっとりと酔いながら、もう自分で自分の身体を支えきれませんでした……。気が狂ったのでしょうか。それでも、私は前後の処置を狡猾に考え廻して、手落なく事を運びました。女中をねかし、また外に出で、木村さんと夢のようなことを語りあいました……。
――「自由に眼がくらんだのだ。」と野口は申します。
けれども、大切なのは、野口が側にいなくなって、その冷かな憐憫の圧迫がなくなって、そしてなぜ、私が「自由」を感じたかということです。ひとたまりもなく打負けたのは、眼がくらんだのかも知れませんが、然し、なんといろんな沢山のものを、私は求めていたことでしょう。またいろんな沢山なものを、自分のうちに持っていたことでしょう。その翌日はもう、私と木村さんは、浅間山の方はふり向きもしないで、谷間の奥深くに逃げこんで、昼食もたべずに、人目を避けました……。草の上、河原の小石の上に、やたらに香水をふりまきました。睡眠中よりも、もっと深い強い夢でした。
その夢からさめると、私はもう何物にも、どんな一寸したことにも、対抗するだけの力がありませんでした。野口が帰ってきても、私はただ白痴のような微笑を浮べてるきりでした。木村さんは、凡てを告白しよう、そして出来ることなら、二人結婚しよう、とまで云いました。ひどく煩悶して窶れていました。とげとげしたところさえ出て来ました。そして一日おいて、後のことを約束して、東京へ帰ってしまいました。私はどんな約束でもしました。意志なんかは……約束を守る意志さえも……少しもありませんでした。そして木村さんが立去ると、私の白痴のような微笑は、とめどもない涙に代りました。泣いても泣いても、涙がつきませんでした。いろいろ問いつめられて、私は野口に一切のことを告白しました。少しも気の籠らない、それでいて涙にぬれた、ばかげた告白でした。けれど、おう、その時、私は野口の、極度の軽蔑の眼付に出逢いました。「僕はお前を自由に放っておくことが、お前の精神力を引立たせる仕方だと思っていた。精神力さえ盛んになればよいと考えて、じっと眼をつぶっていたのに……。」そう云いながらも、彼の眼には、崇高だとも云えるほどの軽蔑の色が溢れていました。私は心の底まで凍りつく気持がしました。もう駄目だ、私と野口との間は、どんなことをしても凡て駄目だ、ということをはっきり感じました。
――俺はお前たちを軽蔑する。お前たちのような人種は滅びてしまった方がよい。
野口の眼はそう云っていました。けれど、彼は淋しそうでした。或は彼の方が私よりも大きな夢を持ってたのかも知れません。然し、現実的に、何という力強い食慾を持ってることでしょう。私はただ、またも泣きたくなります。
底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「中央公論」
1935(昭和10)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつく
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