までも独身でいるのがいけないというのなら、猶更おかしなことでしょう。それにまた、木村さんとしては、過去に失恋されたこともありますし、三十三まで独身でいられても不思議ではありません。また、三十三で独身でいても、ちっとも男臭くなるような人ではありませんから、香水なんかも、他意あって使っていらるるのではないんでしょう。木村さんて、そういう人なんです。何となく弱々しい、夢の多い、感情のデリケートな方でした。そして子供が嫌いでした。子供を相手にしていると、神経を不自然に使わせられる、と仰言っていました。そして、あたりの別荘には大抵子供連れの人たちばかりでしたし、御自分は一人で旅館に泊っていられたものですから、退屈なさると、よく私達のところへ遊びに来られました。
 私は知らず識らず、野口と木村さんとを比較して考えることもありました。そして心易い気持から、野口の側で感ずる気詰りなことどもを打明けることもありました。「それは、あなたが、御主人の仕事をよく理解していられないからではありませんでしょうか。」と木村さんは云いました。おう、男の人って、どうしてこう、仕事仕事……と、そればかりを大事にするんでしょう。第一、野口に、どんな仕事があるのでしょう。私立大学の先生で、歴史や文化や語学の勉強……それも仕事にはちがいありませんけれど……この点については、私は、野口に近い考えを持っております。「夫婦の愛は、良人の仕事に対する理解の上に立てなければならないというのは、ばかげた考えだ。時によると、女のなまじっかな理解などは、却って男の仕事を害することさえある。充分に愛を持っていない者だけが、いろいろ愛について理屈をこねるんだ。」そんなことを以前野口が申しました時、私はひどく淋しい気がしましたけれど、やはり、それが本当ではないかと思うようになってきました。愛しないのは愛が足りないのだ、それに違いはありません。とは云え、愛を邪魔する何かがあるような場合があることも、事実です。
 外を歩くのが私の身体によいというので、私達は時々あちらこちらへ出かけました。軽井沢方面は前年の夏に知りつくしていましたので、浅間山を中心に、押出岩の方面や追分の方面へ出かけました。けれど私は余り気が進みませんでした。外を歩いていますと、野口と私との間に共通の話題の少いのが、殊に目立ってきました。景色のことなどは、そういつまでも話せるわけのものではありません。そして私は淋しい気持で帰ってくるのでした。
 そういうことに反抗したい気持も、私の心の奥にあったかも知れません。或る日、木村さんをお誘いして、六里ヶ原へ出かけました時、私はひどく快活な様子になりました。小浅間の肩の峯の茶屋まで自動車で行き、それから歩いて分去の茶屋まで行き、そこで街道をすてて左にはいると、もうすぐに、なだらかな斜面の六里ヶ原です。ごろごろした熔岩と火山灰との荒野で、遠く間をおいて小さな雑木が少しあり、他は見渡す限り広々と、浅間葡萄に這松ばかりです。その小さな雑木の影で、サンドウィッチをたべ、お茶をのみ、焚火をしたりしました。それからやたらに歩きました。浅間葡萄の熟した実を見つけるのが楽しみでした。火山灰の地面には、ところどころ、思いもかけないところに、大雨の際の水の流れの跡があって、一間余りも深い溝を拵えています。そこに飛びこむと、なかなか上れないことさえあります。木村さんは、「自由を吾等に」のフランス語の主題歌などを小声で歌いながら、ステッキを打振っていますし、私は頓狂な声を立てて、深い溝の中に落っこったりしました。ただ野口だけは、いつもの通り落着き払って、そしてずっと後れて、四方の山を眺めながら、悠々と歩いていました。その姿を見ると、私には、荒野の中につっ立ってる巨人のように思われます。巨人……私のことなんかは気にもとめない縁遠い他人……というほどの意味なんです。実際、彼は私のことなんかは何とも思っていなかったのでしょうかしら。遠くの方で、深い溝の中に一緒に飛びこんだり這いあがったり、顔をつき合して浅間葡萄の実を奪いあったりしてる、私と木村さんとのことを、何とも思っていなかったのでしょうかしら。もしも……もしも……私と木村さんとが、抱きあって、唇でも……。見ると、木村さんは、皮膚に血の気の浮いた顔をして、子供のように純真な眼付をしています。私も子供のようでした。二人は手を取りあっても、おんぶしても、抱きあっても……決して不自然ではなかったでしょう。それを、野口はどうして引止めようともしないのでしょう。僅かばかりの嫉妬の気持さえ感じないのでしょうかしら。私はそんなに無視されてもいいものでしょうかしら。……何かえたいの知れない熱いものが、胸の底からこみあげてきて、私は頬がひきつるのを感じながら、つっ立って木村さんを
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