なかった。そのうち、正枝は突然顔を赧らめ、急いで室から出た。


       三

 翌朝、正枝は昨夜よく眠れなかったに拘らず、へんに早く眼をさました。起き上ると、すぐにキヨがとんできた。
「奥さま、李さんが帰りました。」
「え、李さんが……。いつ?」
 まだ六時前、キヨまでそれで起されたのだった。李はいつもの調子で、のんきに帰ってきて、顔を洗い、身体中水でふいて、それから、今朝だけ御飯をたべさせてくれと頼み、新聞を読みながら待っていると云って、室に上っていったそうである。
 正枝は何かしら慌てた。急いで顔を洗い髪をなでつけ、室の掃除がすむとすぐ、李を呼びにやった。
 李は単衣に着かえていて、笑いながらやって来た。
「ずいぶん寝坊ですね。」
 正枝は黙って李の顔を見た。微笑の光が眼に浮び、喜色が額や頬にあった。何か新鮮なものに触れてきたような様子だった。
 彼はそこに大きな盆を二枚差出した。木の丸盆で、内側の周囲に桜の花が不器用に彫ってあった。
「おばさんにお土産です。こんなもの、使えませんか。」
 正枝はまだ黙っていたが、お茶を一口すすると、いきなり云った。
「一体、どこに行ってた
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