った。二人は議論を外にまで持って出た。
 その二日のことが江原には腑に落ちなかったのである。殊に別所についてそうだった。別所は近頃、神経衰弱の気味だといって仕事も粗漏だったし、元気がなく蒼ざめ、眼に輝きがなく、へんに陰鬱に沈みこんでいた。その上あの「パルプ」同人の断髪の女は、どうも別所と恋愛関係があったらしく、それを李が揶揄するようなこともあったらしい。ところがあの二日とも、別所は妙に苛立ち、李はそれを酷しくやっつけてるのだった。
「李君も少し変ってますからね。」と江原は云った。
 江原の家に、田舎の親戚から預ってる女学生がいた。李が英語がよく出来るので、時々、学校の英語の宿題など教わることがあった。李はいつも親切に面倒を見てやった。ところが或る時、江原がそこに出て行くと、李は椅子に跨って、嬉しげに物語を聞かしてやっていた。若い舞妓と高官の青年との恋愛物語で、その舞妓が一途な愛のために、あらゆる男の誘惑を却けるというような筋だった。江原が側に来ても、李は平気で物語を続けた。
 後で、江原は李に注意して、女学生なんかに恋愛物語は控えた方がよかろうと云った。李は承服しなかった。
「あの話は、朝鮮の最も古い古典文学です。春香伝というのです。春香といふのは、女主人公の名前ですが、英語やフランス語に移されてるものでは、表題が春の香りとなっています。春の香りのように美しい話です。普通の恋愛物語とは違います。」
 江原は口を噤むの外はなかった。そこに、彼の郷愁みたようなものを感じたのである。
 また或る時は、江原もいささか呆れた。この印刷所はどれくらい儲かるかと、李がいきなり尋ねた。経営がやっとのことで儲けなどは少しもないと、江原は正直に答えた。「そうだと思います。」と李は云った。
 その平然たる確信の調子に、江原は苦笑もしかねた。李はそれから、活字の仕入れに不行届きな点があること、下受けの仕事は単価が安くて駄目なこと、儲けの多い端物の得意先を開拓する方法が講ぜられてないこと、其他いろいろ、玄人じみた意見を持出して、しまいに、自分をここの支配人にしてみる勇気はないかと云い切った。ひとつ考えてみようかな、と江原はごまかした。
「是非考えてみて下さい。そして勇気です、物事は勇気です。」と李は独り肯いてみせた。
 李に関するそういう話が、なおいろいろと出た。正枝の方でも、李の逸話を少し
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