君にしっかり生きていてもらいたい。君はほんとの労働者だ。けれど、労働者としての矜りを持っていない。今の世に労働者はいちばん尊いのだから、それだけの衿りを持たなけりゃいけない。その矜りを持つには、売らないことだ。働くのはいくら働いてもいい。けれど、売ってはいけない。働くことと売ることはちがう。とそのようなことを、まじめに真剣に仰言るんでしょう。ふだんは無口なかただけれど、そんな時にはひどくお饒舌になるのでした。思いきって働くがいい、けれど売っちゃいけない。それだけが、君に対する僕の望みだ。とそうくり返し仰言るんです。それがへんに、あたしの胸を刺しました[#「刺しました」は底本では「剌しました」]。あたしいつのまにか泣きだして、村尾さんの腕にきつく抱かれていました。息苦しくなって、自分に返ると、何だか極りわるい気がしました。そんな気持になったことは、近頃にないことです。
 そのようなことがあったり、また何よりも、いちばん度々逢ってたものですから、あたしいつか しらず[#「いつか しらず」はママ]、村尾さんを頼りにするようになっていきました。といっても、心から好きになったのとはちがいます。お父さんの教えは、りっぱに守ってるつもりでした。芸者をしている間は、どんな人でも、ほんとに好になってはいけない、とそう決心していました。そして、やはり、いくらか我儘の出来る地位にはなっていましたけれど、前からの義理あいで、時には身体で稼ぐことも続けていました。それも、あたしにとっては、働くことの一つでした。村尾さんとのそうしたことも、働くことの一つでした。ただ、働くのはよいが売ってはいけない、というその区別が、何だか胸を刺す[#「刺す」は底本では「剌す」]ようでいて、それもはっきり分りませんでした。それに、村尾さんばかり頼りにしていたのでは、お金の上のことで、村尾さんが今にきっとお困りになる、只今でもどんな無理をなすってるか分らないと、そうした心配もあって、村尾さんばかりを大事にするわけにもいきませんでした。
 それでもやはり、あたしの心ではなく、あたし全体が、村尾さんの方へよりかかっていってるようでした。殊に、誰からかつけねらわれてることに気がついてからは、なおそうでした。つけねらわれるといっても、ぼんやりしたことで、何にもはっきりしたものはつきとめられませんでした。初めは、夜遅くお座
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