敷からの帰りなどに、その辺の電信柱の影や、看板の向うや、町の曲り角に、誰かがつっ立って、あたしの方をじっと見てるようなけはいだけでした。いつそんなことが気になりだしたか、自分でもよくは覚えてはいませんし、またあたしは、近眼に乱視なので、遠くがよくみえませんけれど、たしかに、物影からあたしの方をじっと見てる人があるんです。おやと思って立止ると、もうその人の姿はありません。それにあたしは、そんな時はたいてい酔ってたものですから、何かの気のせいだろうぐらいに思っていました。
それが、だんだんはっきりしてきましたし、しつっこくなってきました。家の近くを、夜遅く、変な人がうろついていた……家の横手で、変な人が立聞きしていた……そういう噂を、ちょいちょい聞くようになりました。また、夜中の一時二時頃、誰からともなく、あたしに電話がかかってきました。千代次さんはいますかと、きまってそうなんです。いない時には、そうですかとだけで、切れてしまいますし、いる時にも、そうですかとだけで、切れてしまいます。どうも、お出先からの電話じゃありません。それが、女の声だったり、男の声だったりします。電話に出るのは、たいてい仕込さんですが、あとでは、あたしが待ちうけていて出てみましたが、そうですかとだけで切れてしまうので、ばからしくなりました。
そうしたことから、だんだん、あたしをつけねらってる者があるということが、分ってきました。うちのねえさんは心配して、心当りがあるかどうか、あたしにたずねましたが、全く覚えのないことでした。あたしこれまでに随分、いろんな男の人を知ってはいましたが、どれもただ、稼ぎのためだけで、お父さんの教えの通り、心を移したことはありませんし、したがって、だましたとか、不実なまねをしたとか、とにかく、怨まれるような筋合のものは、一つもありませんでした。それがあたしの自慢だといってもよいくらいでした。つけねらわれる人があろうなどとは、てんで心当りがありません。それなら何か不良のせいですよ、と箱やさんは云いました。こんどわたしがとっつかまえて、袋叩きにしてやります……。そして箱やさんはあたしの出入りに気をくばってくれました。
そうして、ねえさんから心配されたり、箱やさんから気をくばられたりすると、かえってあたしは心細くなってきました。そうしたことから、しぜんと、村尾さんを頼りに
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