象を私に与えた。
 私は歩み寄って、遠慮なく声をかけた。
「あなたの持ち物に、瓢箪が一つ殖えましたね。」
 市木さんは私の方を仰ぎ見て、半端な笑みを浮べた。
「酒がはいってる時は可愛いが、酒がなくなるとつまらなくなりますなあ。」
 私はなんとなくそこに屈みこんだ。焼跡の草原で、コンクリートや煉瓦の破片がごろごろしていた。
 西空には低く、真黒な雲が重畳していて、その上縁がぎらぎら輝き、その少し上方の深い青空に、太陽がぽかりと浮き出し、銀盆となってぐるぐる回転していた。太陽の方が雲に没するか、雲の方が太陽を覆い隠すか、どちらになるとも分らない状況で、見ていると眼が昏みそうだった。
「スケッチなさらないのですか。」
「いや、とても。」
 それきり言葉は途切れた。雲の方がだんだん低くなり、太陽との間が大きくなってゆくようだった。
 暫くたってから、市木さんはふいに言いだした。
「へんなことを思い出しましたよ。」
 川の水面の渦のことだった。幼い頃、田舎で、渦をじっと眺めていたことがあった。堰のあたりなど、下方に水の漏れる穴でもあったのか、満々と湛えた水面に、大きな渦が巻いていた。周辺はゆるやかな動きだが、それが次第に速くなり、中心に近づくほど急激に回転して凹み、深い穴となって、きゅーっきゅーっと巻き込んでいた。草の葉など投げ込んでみると、初めはゆっくりと遠廻りをし、次第に速い狭い円弧を描き、しまいには中心の凹みに落ち込んで、忽ち吸い込まれてしまった。その渦を眺めていると、身の引き緊る思いがするのだった。
 そういうことは私にも、子供の頃に覚えがあった。
「だが、それを今はっきり思い出してみると、違った意味に取れますなあ。つまり、違った感じになるんです。渦は渦ですが、人の心理の渦、それから社会的な渦、そういうものがはっきり見えてきますよ。」
 市木さんの表現は簡単でそして特殊であって、私にも充分には理解しにくかったが、要するに次のようなことらしかった。即ち、人間の心理にも一種の渦巻があって、その中心に落ち込んではもうどうにもならない。社会的な関係に於ても一種の渦巻があって、その中心に落ち込んではもうどうにもならない。人はいつも危険な渦巻の崖縁に立ってるようなものである……。
「だから、わたしは用心しております。」
 市木さんの用心とは、つまり、孤独な精神と生活とを守ることに
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