ある立派なホテルにはいってゆきました。すると、白い服を着た男がいて、少年のみすぼらしい服装を見て、言いました。「ここは、お前さんのような者の来るところではない。食事がしたいのなら、ほかをたずねてごらん。」少年は外へ出て、も一つの立派なホテルにはいってゆきますと、また同じことを言われました。少年は外へ出て、ぼんやり歩いてゆきました。大きな川のふちに出て、その少し先の薄暗い広場に、小さな噴水がありました。きたない身なりをした老人が、噴水の水を飲んでいました。少年は尋ねました。「その水は、誰でも飲んでいいのですか。」老人は答えました。「飲んでいいとも。だが、うまい水ではないよ。」その水を、少年はうまそうに飲みました。それから、立派なホテルから追い出された話をしますと、老人は笑って言いました。「それは、そうしたもんだよ。」それで少年は、皮袋から金貨を出して見せて、何か食べさせてくれるところはあるまいかと尋ねました。老人はびっくりして、そんな金貨があれば食事はどこでも出来ると言いました。それで、少年はその老人を誘い、また腹のすいてる人たちをたくさん誘って、ある小さな料理屋へ行き、みんなで楽しく食事をしました……。
 その少年の名前がエキモスというので、私にはすぐ自分の作品だと分った。長い童話の一節で、だいたい右のような話だった。市木さんはそれを信吾に読んできかせてるに違いなかった。親子というよりは寧ろ祖父と孫とのような二人が、電燈の明りの下に寄り添ってる情景が、私の頭に映った。そしてふっと、立ち聞きしたのが悪かったという気持ちになり、足音をぬすんで家に帰った。
 だが、その童話を私の作品だと市木さんが知らない筈はなかった。知っていて黙っていたのである。其後も、私は自分の童話については黙っていたが、市木さんの方からも何とも言い出さなかった。
 この童話の件のような外的な事柄については、市木さんは別に隠し立てをするというわけではなかったろうが、ひどく物ぐさな無口だった。その代り、内心の考えを私に打明けることは多くなった。
 或る夕方、市木さんは路傍の草原に腰を落ちつけ、両足を前方に投げ出して、夕陽を眺めていた。スケッチブックを突っ込んだ竹籠を肩にかけ、太い杖をわきに置き、杖のそばには瓢箪が一つ転がっていた。見馴れないその瓢箪が、なんだか薄くなったような長髪と共に、妙にうらぶれた印
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