躇した。市木さんは鍵を取り出して、格子戸についてる錠前をあけた。
「さあおはいりなさい。」
何か用があるのかも知れないと思って、ついてゆくと、縁側に招ぜられた。そこに腰掛けて、茶と羊羹との馳走になった。宇治から贈ってきたというその玉露を、市木さんは自慢したが、私にはただ甘渋いだけで、味のよさは分らなかった。
別に用があるわけでもなさそうだったから、私はほどよく辞しかけた。
「あ、こちらこちら。こちらからいらっしゃい。」
表門の方へ行こうとする私を呼びとめて、市木さんは裏の方を指し示した。私は頬笑み、そしてお時儀をして、裏手の低い四つ目垣を跨ぎ越して家に帰った。
それが最初で、それからは、竹の垣根を跨いで市木さんのところへ行くことになった。仕事に倦きると、ぶらりと出かけて、縁側で無駄話をしながら、煙草を一本ふかすぐらいの時間で帰って来た。市木さんの方でも、垣根を跨いでやって来ることがあった。私の家の庭はわりにゆったりしてるといってもそう広いものではなく、市木さんの家の庭は狭っこいものだったが、時折、垣根を跨ぎ越して往き来してみると、ちょっと物珍らしい気も起って、低い垣根が却って便宜なようにも思えるのだった。
往き来するといっても、月に一度か二度に過ぎなかった。市木さんの方では、私の庭にはいって来ても、私には声をかけず、そこらをぶらついて帰っていった。私か妻かがその姿に気づいて招じると、縁側に腰を下すこともあったが、お茶を一杯飲むだけですぐに立ち上った。
私の方では、垣根を越せば、たいてい市木さんに声をかけた。市木さんは階下にいる時はいつも出て来たが、二階にいる時は、二階の硝子戸をあけて顔を出し、今は誰にも逢いたくないから失礼します、と言ってすぐに引っ込んだ。私は苦笑して、そこらをぶらついてから帰った。市木さんが二階で何をしているのか、私には見当もつかなかった。
その低い垣根のおかげで、市木さんがほんとに怒ったらしいところを、私は一度見たのである。
或る朝のこと、縁側に立って冬の陽差しを眺めていると、市木さんの家で、激しい物音が何度か続けてした。堅い器物がぶつかった音とは違い、なんだか肉体的な響きが感ぜられた。二人の子供はもう学校に出かけてる頃で、市木さん一人きりの筈だし、なにかの発作でも起して、または誤って、引っくり返ったのではあるまいか。私は心配にな
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