を見て、眼で笑った。
一仕事すましたという満足感が、市木さんにはあったろう。然しまた、私に対する好意というようなものを、その眼の中に私は感じた。童話を書いたり飜訳物をしたりして貧しい生計を立ててる私の職業を、市木さんはたぶん知らなかったろうが、官吏でもなく会社員でもない私の人柄に、なんとなく好感を懐いたらしいことが、後になって私にも分ったのである。
或る日、市木さんが写生してるところへ私は行き会った。神社の境内をぬける道のほとりで、そこに大きな枯木があって、上方の枝は切り取られてる幹に、ところどころ、太い瘤々が盛り上っていた。その樹幹を、市木さんは例のスケッチブックに、鉛筆で写し取っていた。
私はそこへ行って、横から覗いてみた。市木さんは振り向きもせず、一心に描いていた。私が見てもどうも上手な絵とは思えなかった。やがて市木さんは、ちょっと小首を傾げて、それから私の方を向いた。
「あの幹は、いくら書いても倦きませんよ。」
そして画帖をめくって見せた。瘤々の盛り上ってる樹幹が、幾つも写生してあった。それをぱらぱらめくって見せただけで、私の意見は求めず、すぐに竹籠へつっ込んでしまった。
しぜんに、二人は並んで歩きだした。私は家へ帰るところだったし、市木さんもそうだったらしい。
「油や水彩など、そういう絵もお書きになりますか。」
「いや、そういうものは書きません。墨絵もわたしは書きません。」
市木さんに言わすれば、色彩とか濃淡とかを用いることは、自然を画家自身のものとすることになるのだった。いくら自然自体を取扱おうとしても、色彩や濃淡によって必ず画家自身のものとなる。だから市木さんは、鉛筆でしか書かない。鉛筆で書くことによって最もよく、自然を自然自体として表現出来る。市木さんは自然を自分のものとしようとは思わず、ただ自然自体として楽しむのである。
市木さんのそういう見解は、私には納得がいかなかったし、一種の負け惜しみのようにも思えた。だが、私の注意を惹いたことが一つあった。市木さんは言った。
「わたしは自分自身をも、自然自体の一つとしたいのですが、なかなかその境地まではゆけませんな。」
ぶらぶら歩いて、市木さんの家の前まで来た。市木さんは私の方を顧みた。
「ちょっとお待ちなさい。今すぐ開けます。」
まるで、私が立ち寄ることにきまってるかのようだった。私は躊
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