私は自己の孤独圏を確保したい。そこへだけは、何物にも踏み込ませたくない。そここそ、私の思念の聖域なのだ。
 晩年の別所のことを私は思い出す。彼は文学者で、逞ましい作家だった。客と対談しながら、さらさらと原稿を書いた。私が遊びに行くと、如何に忙しい仕事の最中でも、決して嫌な顔をせず、書斎に招じた。そして一方では私と歓談しながら、一方では原稿を書いた。新聞雑誌の編輯者や其他の訪客が来ても、適当な応接をしながら、原稿を書いた。それもでたらめな原稿ではなかった。時々眉根を寄せて考えこんだが、客に向ってはにやりと笑った。その、さらさらと走るペン先と、一枚ずつめくられてゆく原稿紙とを、私は不思議な気持ちで眺めたものだ。こちらが黙っていると、彼の方から話しかけて来た。私は彼を、精神分裂症ではないかと疑ったほどだ。
 その彼が、晩年、というのはつまり死去の少し前、あまり人に逢いたがらなかった。人前では決して仕事をせず、仕事をしていない時でも訪客を嫌った。外出することも少くなった。或る時、非常な重大事でも打明けるような調子で私に言った。
「孤独を味いたくなったんだ。少し遅すぎるかも知れないがね。」
 
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