折、闇の中に、彼の気配を錯覚することがある。
「なんとか、こちらへ来ないようにして貰いたいもんだね。」と私は婆やに言う。
 婆やは澄ましたものだ。
「あの子は馬鹿でございますよ。馬鹿ですから、閉じ籠めておくことも出来ませんのでしょう。」
 その馬鹿が、薪を割ったり、お釜の下を燃やしたり、ちょっとした使い走りをしたりして、家の者にはいくらか役に立っているらしい。
 私は時々ばかばかしくなる。彼から嘲笑されてるような気にもなる。然しそんな下らないことが、下らないことであるだけに却って、私の神経にさわるのだ。それでも我慢しているより外はない。もし怒鳴りつけでもしたら、私は一層惨めになるだろう。
 ――清子は、この保倉の息子を、婆やのように無視するのではなく、やさしくそして平然と眺めることだろう。存在する凡てのものを、ありのままの姿でいたわり眺める、そういう彼女なのだ。
 久子はいつも、保倉の息子の気配を感ずると、挑戦するように飛び出してゆく。そして彼が逃げてゆくと、それについては何も言わずに、他のことを言う。
「あら、百日紅がきれいに咲いてるわ。紅と白と……。少し頂けないかしら。清田のおばさまのお墓に持っていきたいわ。」
 私は戸惑いさせられるのだ。夫婦喧嘩だの保倉の息子だのと、清田のおばさまとは、何と縁遠いことか。――清田のおばさまは、彼女の気転で思いつかれるのか、それとも常に彼女の心の中にあるのか、私は知らない。
 然し、庭の百日紅はまったく綺麗だ、上方が折れ朽ちてる桜の古木の横手、山茶花や木斛や木犀や檜葉などの茂みの中に、鮮紅色と白色との花が群がり咲いている。緑葉の茂みの中に仄見えてるから殊によい。それをじっと見ていると、花の憂愁とも言えるものが心に通ってくる。――花の憂愁、いや、私の心の孤愁なのであろう。
 私は酔うと、ひどく酔うと、頭脳が硬ばってくるのを感ずることがある。そのような時、堅い物を後頭部にあてがうと気持ちがよい。ふと思いついて、婆やに箱枕を買ってきて貰った。陶枕というやつはどうも病人くさくていけない。箱枕なら、独身者に色気まで添えてくれる。婆やが買って来たのは、鮮かな朱塗りのもので、緋繻子の枕布に、赤い絹糸の総が垂らしてある。それに白麻の覆いをして貰い、私は仰向きに寝転ぶのだ。少し高めだが、頸筋に空気の通りがよく、後頭部だけが気持よく緊圧される。後頭部に少しく痺れがくると、横向きになる。
 正面に、緑葉から覗き出てる百日紅の花が見える。じっと見つめていると、花は淋しく微笑み、私は寂寥の淵に沈んでゆく。何物にも代え難く貴い、孤独圏の中の寂寥の深淵だ。心は痛み、眼に涙がにじんでくる。哀愁と喜悦とが合致した境地だ。それを私は何物にも乱されることなく、自分一人のものとして確保したいのだ。ここを通ってこそ、高い思念が得られ、創意が湧いてくるのだ。私はただ祈りたい。
 ――清子が側にいたら、この私の祈りを助けてくれるだろう。その無言の温容で、私に力づけてくれるだろう。黙って側にいることによって、それだけのことをしてくれる、そういう彼女なのだ。そして私は泣きながら起き上り、彼女をこの箱枕に寝させ、彼女にあの百日紅の花を眺めさせるだろう。それにふさわしい彼女だ。
 然るに、この箱枕のために、嘗て怒ったことのない私が、本当に腹を立てたのだ。
 尾形と久子とが連れ立ってやって来た。私はもうあまり人に逢いたくない、当分は……。それでも、嫌な顔をせずに彼等を迎えた。――私が家に引籠って、酒ばかり飲んで、寝たり起きたりしてることを、尾形は聞いて、心配してくれたのだ。
 彼は怪訝な眼付で、私の様子をうかがいながら、調子は快活に言う。
「どうも病気らしいというから、来てみたら、案外元気じゃないか。それとも、酒気違いというやつかね。」
 私は寝床も片付けさせていたし、坐り直していた。髯は隔日に剃るのが習慣で、生えてはいない。髪も毎朝きれいにとかしている。
「そうだね、この通りだ。」
 久子が横合から言う。
「でも、いつも寝てばかりいらしたじゃないの。病気らしいと、御自分でも仰言ったわ。」
「いろんなことを考えるのが、つまり思索が、僕の病気さ。そして考える時は、寝ころがるのが、僕の癖だよ。」
「そんな病気や癖なら、あたしもしてみたい。」
「誰だってしたいよ。」と尾形は笑った。
 婆やが茶をいれてくると、私はすぐにウイスキーの瓶を出さした。何か撮み物の用意も頼んだ。
「なにも肴はないが、久しぶりで飲もう。」
「嘘言え。」
「いや、君と飲むのが久しぶりだ。こいつ、試験ずみで、メチールはないから安心しろよ。」
 こうなってくると、尾形はいつものように快活に磊落になる。久子もグラスをなめる。
 尾形は正体の知れぬ男だ。元気に饒舌りまくって、そのために却
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