って、本心がどこにあるのか分らない印象を与える。体も頑丈で、肉づきが丸っこく固く、短髪に浅黒い顔色、視線にいささかのたじろぎも示さない。そして本来は善良なのだ。正体が知れぬというのは、見たところだけの正体で、他に何もないという意味にもなる。
 研究所に出資してくれる杉山さんが、今回の研究結果を大変期待して、更に多額の出資を予約してくれたと、尾形は子供のような喜び方をしている。久子をさして言う。
「このひとは君、なかなか話がうまいよ。杉山さんをすっかり喜ばせてしまった。りっぱな外交官だな。」
「あら、わたくしはただ、ありのままを報告しただけですわ。じっさい、りっぱな成果ではございませんの。」
「そうだ、よく整理すればね。……それから君、僕は新たな研究題目へも取りかかりたいと思ってるんだが、どうだろう。」
 第一次世界大戦後から、現在までの、日本の社会情勢とか時代思潮とか人心の帰趨とか、そのようなものから、一転して、政治の欠陥、つまり根本的な責任感の欠除を追求し剔決してみたい。現在、官僚について兎角の批判が為されているが、右の具体的研究によってこそ、官僚組織は根底から転覆される筈だ、と彼は主張するのだ。
「君の休暇が済んだら、ひとつ取りかかってみようじゃないか。」
 私は曖昧な微笑を浮べる。
「然し、僕の休暇はなかなか済みそうもないよ。」
「だって、病気じゃないんだろう。」
「病気じゃないよ。ただ僕は、政治が如何に愚劣であるかを知った。政治による制度が如何に愚劣であるかを知った。その病気が少しなおらないうちは……。」
「然し君の言うのは、日本の政治のことで、政治そのもののことではないだろう。だがまあ君の意見を聞こう。」
 私はまだ、そのようなことを論議したくないのだ。政治よりも人間だ。人間よりも、自分が今さしかかっており、そして通り過ぎねばならない、寂寥の深淵の孤独圏の[#「孤独圏の」は底本では「狐独圏の」]ことだ。然しそれはまだ誰にも洩らしたくはない。それは立入禁止の聖域なのだ。――私は別な方面から言う。
「先ず、一応、社会が解体してしまって、個人個人がばらばらになり、それから改めて結合するんだな。」
 それが、多岐に亘った議論をひき起した。そんなことをして、現代社会で、人は生き得られるか。よし生き得られたとしても、どんな風に新らしい社会が形成されるか。具体的な問題は無数に生起してくる。――だが、私としては、たとい生き得られなくとも結構だと思うのだ。
 それに、私は議論が嫌になり、次に憂鬱に沈んでゆく。飲む速度も早いので、ひどく酔ってくる。尾形の方では酔えば酔うほど饒舌になるのだ。私は彼に饒舌らしておいて、ぐったりと横になった。
「お疲れになったのね。枕をあげましょうか。」と久子が言う。
 私が頷くと、酔ってる彼女は、尾形の前も憚らずに、押入を開けた。
「あら。」
 彼女は一瞬立ち竦んだ。それから、真赤な箱枕を取り出した。
「なんでしょう、これは。」
 彼女は冷淡に言って、箱枕を私のそばに投げだしたのだ。その枕のことを、私は彼女に秘している。言うべきことでもないからだ。――然し、それを瓦礫のように投げ出されると、酔ってる私は、急激な憤怒を咄嗟に感じた。私は起き上って、枕を拾いあげ、袖で拭き清め、それを頭にあてがって寝そべった。そして叫んだ。
「もう帰ってくれ。君たち帰ってくれ。僕は一人でいたいんだ。この大事な箱枕をして、彼女のことを考えていたいんだ。一人きりでいたいんだ。何をぐずぐずしてるんだ。帰れよ。僕はもう一切口を利かないぞ。黙って一人でいたいんだ。」
 私の眼から涙が流れてくる。私は横向きに枕を抱くようにして、両袖で顔を蔽う。――尾形が、それから久子が、私に何か言ったり、互に囁き合ったりしてるようだ。私は何物にも耳をかさず、何物も見ないのだ。
 夢のように、然し明瞭に、台風の中心みたいなものが現われる。そこは真空だ。私はその中に身を置く。底知れぬ寂寥が私の上に蔽い被さってくる。泣ききれぬほどの嬉しい哀愁だ。そして真空なのだ。真空は満たされねばならない。それを満たすために、清子の姿が立ち現われる。真空の中に、それは自然と出現する。――私は眼を開く。そこには誰もいない。尾形も久子も帰っていったらしい。婆やもいない。ただ私一人だ。もう清子もいない。清子は果して実在の人間だろうか。そうだ、私にとっては架空のものではない。――私は箱枕に後頭部を押しつけ、仰向けに体を伸して、瞼を閉じる。蝉の声がちょっと聞えて、あとはしんしんと、寂寥の聖域だ。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「群像」
   1947(昭和22)年1
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