ならしとかを手に取ることはない。もっとも、夏のこととて火は入れてないのだ。――或る時、彼女はやはり火鉢の中を覗きこんだが、ふいに、くすりと笑った。それから私の方を、黒い瞳でじっと見た。
「先生は、夫婦喧嘩なんか決してなさらないかたね。」
私は微笑したものだ。大事な事柄らしい話には微笑することにきめている。
「夫婦喧嘩だってするかも知れないよ。妻がないからしないだけで……。」
「いいえ、なさらないわ。女を軽蔑していらっしゃるから。」
「尊敬してるんだよ。」
そんなことを彼女はもう信じはしない。そして、尾形さんは女を尊敬しているが、あまり尊敬しておかしなことがあったと言う。
「たいへん不機嫌だから、なんだと思ったら、夫婦喧嘩をなすったんですって。」
尾形というのは、研究所の私の仲間なのだ。――田舎の友人から鶏卵をたくさん貰った。それで尾形は、オムレツでも拵えさせようと思いついて、牛肉のこま切れを買って帰った。ところがあとで、奥さんが言うに、この節は牛も食い物が悪いと見えて、肉に脂が殆んどのっていないらしい。皿物にあまり脂がつかないし、ちょっと水で洗っただけで、きれいに落ちてしまう。いったいお値段はいかほどでしたの、と聞くから、正直に、百匁七十円だったと答えた。すると、奥さんは眉をしかめて、それじゃあ、犬の肉だったに違いないと言う。ごまかしなすったのねという。尾形は少し酔っていたものだから、ばかなことを言うなと怒鳴った。肉屋はごまかしたかも知れないが、俺はごまかしなどはしない。いいえ、ごまかしなすったのよ。そんなことから喧嘩になって、尾形は食卓を拳固で殴りつけ、長火鉢にかかってた鉄瓶を引っくり返して、灰かぐらを立ててしまった。そして奥さんとは翌朝まで口を利かず、ぷりぷり怒って研究所に出て来たが、とても不機嫌だった。
「先生は女なんかばかにしていらっしゃるから、決してお怒りにならないのよ。」
そうなると、私の微笑は苦笑に変るのだが、それも中途で凍りついてしまう。――私は妙な印象を受けたのだ。そこに坐ってる久子の体が、千鈞の重みに見える。夫婦喧嘩などに成算は持てない。彼女はその時和服を着ていたが、臀部は臼を据えたように小揺ぎもなく、帯や細紐でしめあげた腰の下に、腹部がまるみをもって盛り上っている。その肉体に、私は妥協し譲歩したではないか。
打明けて言えば、初めのうち、閨の中で、私と彼女とは気が合わなかった。私はともすると、うふふと笑った。彼女はしばしば焦れた。焦れては、私の胸を叩き腕をつねった。それが、後には、しっくり気が合うようになった。私の方から、それをつとめて、妥協したのだ。いや、女の肉体が私の肉体を征服したのだ。――男女の関係とは、そのようなものだと私は思う。殊に夫婦の関係ではそうであろう。男の方から調子を合せてゆくのだ。そして自主性を失うのだ。
――清子だったら、そんなばかなことはないだろう。いや、このようなことを言うのさえ、彼女を汚すことになる。そのような彼女なのだ。
私が打ち拉がれた気持ちに沈んでいると、久子は突然立ち上った。そして縁側へ、つかつかと出て行き、柱に片手をかけて、庭の方を見やった。――キキキというような甲高い笑い声がして、少年が彼方へ立ち去ってゆく。西岡とは別な家庭の保倉の息子だ。
保倉の息子も、私の孤独圏を乱すものの一つだ。罹災して危く死にかかるところを、ふしぎに助かったのだとか。片方の頬から肩へかけて火傷の痕がある。――彼が狂人だかどうだか私は知らない。十五六歳の普通の体格だが、へんに首が短く猫背で、頭は後頭部が扁平で大きい。裾短かな単衣を着て、庭の中をいつもうろついている。鍵の手になった建物をおぶってる恰好の広い庭で、植込も多く、真中が竹垣で仕切られている。そこを彼は、猫背で鼻先をつきだしてる様子で、用もなくぶらついている。出逢っても、顔を挙げて正視することなく、ちらと一瞥するだけで眼を外らしてしまう。その一瞥が、相手の秘密までも見通してしまうような視線だ。
彼はしばしば、私の室の縁側近くまでも忍び寄って来て、室の中をじろりと眺め、縁側に沿ってぶらついては、また室の中をじろりと眺める。私か婆やかが、そこへ、彼の眼の前に、ふいに出て行くと、彼はキキキと変な笑い声を立てて、彼方へ立ち去ってゆく。それでも彼は唖者ではない。甲高い声で早口で、家人たちに口を利いてることがある。家人以外の者には殆んど口を利かないだけのことだ。いくらか低能だとの噂だが、私にはむしろ狂人に近く見える。
この保倉の息子は、いつも私の神経にさわり、私の孤独圏の安定を脅かすのだ。気にするほどのものではないと知りつつも、縁側近くをうろつかれると、何かを探偵されてるようで、不気味だ。夜分にその姿を見かけることはないが、然し時
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