私は自己の孤独圏を確保したい。そこへだけは、何物にも踏み込ませたくない。そここそ、私の思念の聖域なのだ。
 晩年の別所のことを私は思い出す。彼は文学者で、逞ましい作家だった。客と対談しながら、さらさらと原稿を書いた。私が遊びに行くと、如何に忙しい仕事の最中でも、決して嫌な顔をせず、書斎に招じた。そして一方では私と歓談しながら、一方では原稿を書いた。新聞雑誌の編輯者や其他の訪客が来ても、適当な応接をしながら、原稿を書いた。それもでたらめな原稿ではなかった。時々眉根を寄せて考えこんだが、客に向ってはにやりと笑った。その、さらさらと走るペン先と、一枚ずつめくられてゆく原稿紙とを、私は不思議な気持ちで眺めたものだ。こちらが黙っていると、彼の方から話しかけて来た。私は彼を、精神分裂症ではないかと疑ったほどだ。
 その彼が、晩年、というのはつまり死去の少し前、あまり人に逢いたがらなかった。人前では決して仕事をせず、仕事をしていない時でも訪客を嫌った。外出することも少くなった。或る時、非常な重大事でも打明けるような調子で私に言った。
「孤独を味いたくなったんだ。少し遅すぎるかも知れないがね。」
 それからちょっと間を置いて、また言った。
「孤独の底に沈んでみたいんだ。」
 深い絶望か或は高邁な理念か、どちらに彼が捉えられたかを、私は知らない。いや、そういうものに捉えられたのでも恐らくなかろう。――其後一年ほどして彼は急逝した。
 その別所のことが、へんに気にかかってくる。私の孤独圏というのは、別所の所謂孤独とは異質のものかも知れない。精神の周囲と言ってもよし、精神の内部と言ってもよいが、そこの僅かな空間のことで、それは絶対に私一人だけのものであり、決して他人の窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]を許さないものであり、私の独自性の根源なのだ。僅かな空間ではあるが、上下には無限に高く無限に深い。――それに私はいつとなく突き当ったのだ。私が自分を病気ではないかと思うのも、別所のことからの類推かも知れない。
 私はまた夢をみた。――満々たる水面に、大きな渦が巻いている。渦は急激で、中心は深い穴となって吸いこんでいる。二筋の藁屑と一枚の木の葉とが、ゆるやかに旋回しながら中心に近寄ってゆき、やがて急に吸いこまれてしまった。あとには何もなく、ただ中心の深い穴だけだ。それが多少大きさを変えながら、音を立てて、無限の底へと巻きこんでいる。ただそれだけだ。
 それが、眼を開いても、眼底に残っている。見ようと思えば、すぐに現前してくる。
 その渦は、私の孤独の寂寥さだ。絶え難い寂寥だが、何物にも代え難く貴い。それを乱す一切のものを、私は憎悪し忌避する。――久子ともし結婚すれば、久子はそれを乱すだろう。久子ばかりでない……。
 私は今、空襲のために罹災して、大きな家屋の一翼に住んでいる。母屋の方には二家族がいる。その一つの西岡が、家の所有者の親戚で、全体を監理している。この西岡の夫人が、私にしばしば結婚をすすめて、候補者という令嬢の写真を幾枚も見せた。私が笑って取り合わなくても、彼女は写真を置いてゆく。私はそれを一日だけ預って、翌日には返すことにしている。写真など、どうせ実物より良いか悪いかどちらかだ。私はろくに見もしない。
 ――もしも、清子の写真があったら、朝となく夜となく、私は眺め暮すだろう。机上に飾っておくだろう。彼女の写真は実物そっくりに違いない。つまり、実物とは違った写真が出来ないような、そういう彼女なのだ。
 一日おいて写真を返すと、西岡夫人は感心したように言う。
「これもいけませんか。そうですかねえ。」
 そしてまた暫くすると別な写真だ。――世の中には、結婚可能な男もずいぶんいるが、結婚可能な女は更に多いらしい。然し西岡夫人はそんなことは言わない。脂肪の多い頬に窮屈そうな笑みを浮べて、眼だけが真面目に私を直視する。
「あなたも早く結婚なさらないと、しまいにはしそこなってしまいますよ。わたしの知ってるかたで、あれこれと選り好みばかりなさった揚句、とうとう、女中さんと結婚なさったのがありますよ。」
「ところが、私のところには、婆やきりいませんよ。」
「まったく、あの婆やさんは感心ですね。無口で、忠実で、よく働いて……。」
 そんな調子だから、私は西岡夫人と話すのは嫌ではない。結婚の話も、さらりとしてるから苦にはならない。
 然し、結婚という言葉は、抽象的なものではない。私の脳裡には、長火鉢の前に妻たるものが大きな臀を据えてる情景が、はっきり映ってくる。それが私の孤独圏を圧迫し縮小させるのだ。
 久子は私のところに来ると、長火鉢の前にも平気で坐る。そして何故か、眉根に深い縦皺を寄せて、一度は必ず火鉢の中を覗き込む。それだけで、火箸とか灰
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