い。そういう大なる責任感のない所には、本当の努力は生じない。本当の努力のない所には、力や光は生じない。
生活の方向を決定するのに、自分の意志が加わっておればおるほど、その度合に正比例して、生活は本当の意味で自分のものとなり、力強い輝かしいものとなる。
余儀なく駆けさせられる馬車馬で、吾々はありたくない。自分の意志によって山野を駆け廻る奔馬で、吾々はありたい。
余儀なくさせられる生活は惨めなものである。自分で欲してする生活は、崇高なものである。余儀なくということを出来る限り少くし、欲するからということを出来る限り多くした生活、それが最もよい生活である。なぜなら、それは最も多く自分[#「自分」に傍点]の生活だからである。
本当の責任や努力や力や光などは凡て、自分のもの[#「自分のもの」に傍点]だという意識から生れてくる。自分が欲して選んだのだという意識から生れてくる。俺の知ったことか! という無関心な絶望の言葉は、強いられ余儀なくされた意識からしか生じない。
自分の生活に向って、俺の知ったことか! という言葉を投げる者は、既にもう救われざる破滅に陥っているのである。本当に生きる者にとっては、自分の生活はどこまでも自分のものである。ひっくり返して云えば、自分のものだという生活をする者こそ、本当に生きる者である。
本当に生きるには、生活を本当に自分のものとするには、出発点に於て、云い換えれば生活の方向をきめる時に、自分の意志を以てしなければいけない。
生活の決定は、自分の意志が多く加わっておればおるほど、それに正比例して、その生活は自分のものとなり、その生を営むものは本当に生きることとなる。
生活の方向を自分の意志で決定して、而も誤りなきを得るのは、人間として完成した立派な人のみである。大抵の者は危険な誤りをなし易い。
妥当な批判と架空的な幻との間は、殆ど区劃を許されないほどに近い。妥当な批判をなさんとしてるうちに、人は知らず識らず、架空的な幻に囚われることが多い。自分の才能や性格や境遇などを考察して、自分の生活の方向を定めんとする時に、いつしか架空的な幻を描いて、誤った方向を取る者が、殊に青年に於ては稀でない。
要は、生活の方向の決定に、なるべく自分の意志を多く加味することにあるので、独断を以て進むことではないけれど、自分の意志をなるべく多く加味する
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