という、その多く[#「多く」に傍点]が往々にして危険の種となる。
その危険を除去するには、勿論その人の人格なり知慧なりに俟たなければならない。然し私は茲にただ一つのことだけを云っておきたい。
それは、自分の生を愛するという心である。
如何に惨めな境遇に在り、如何に労苦のうちに悩む者も、誰が自分の生を愛しない者があろうか。外見如何に悲惨な生であろうとも、その生はその当の者にとっては極めて貴い。虫けらの生もその虫けらにとっては極めて貴い。
然るに、この自分の生が自分にとっては貴重であるという心持――貴重だという事実ではなくてそういう心境、それを吾々は往々にして失いがちである。どうせ死ぬまでの生命だから何をしても構うものか、という投げやりの気分や、生きてるうちに出来るだけ何でもしてみたい、という脹れ上った気分や、どうせ終りは死だから齷齪するだけ馬鹿げてる、という萎縮した気分や、其他種々の気分のために、生が貴重だという心境を、吾々は往々にして乱される。
然しながら、心を静かにして観ずる時には、生きるということが、如何に喜ばしく輝かしく貴く、また不可思議な驚異であることか! そしてそういう気持からこそ、のびのびとした力強い気魄は生れてくる。
この気魄を失わない限り、人は常に自由な晴れやかな真摯な意志の所有者である。
自分の生を軽視することは、あらゆる不徳の基である。と共にまた、あらゆる萎微沈滞の基である。
自分の生を愛する気持から来る、自由な真摯な意志は、人に不撓な勇気を与えると共に、無謀笨粗な猪勇を排し去る。そういう意志を以て進む者は、常に輝かしい心と健かな希望とを失わない。そして剛毅な冒険をなすことはあっても、捨鉢な暴挙に己を投げ出すことはない。
そういう意志にこそ、生活の方向を定むる場合に、人は自分に固執して誤りないものである。その時人は、周囲の事情から然らしむるからではなくて、自分の生が貴いが故に、不可能な方向を選びはしない。最善可能な方向を見出して、あくまでその方へ勇往邁進してゆく。
自分の生を愛する心を以て、自分の意志で生活の方向を定め、その一筋の途を見つめて進んでゆく時には、たとえ一時的の手段を講じ一時的の迂回をなすことを、外部の事情から余儀なくされることは屡々あろうとも、人は常に健全で力強く輝かしいであろう。
此の健全な力強い輝かしさこ
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